名前:リストラから生還! 唄う フリーランスかめ
年齢:48歳
誕生日:1963年生まれ
性別:男性
職業:フリーランス
ウェブサイトURL:
http://ameblo.jp/kamesann3chiharu/
ツイッターURL
http://twitter.com/#!/kamesann3
自己紹介

2011年7月28日(木)から、このシーサーブログの他に、
「松山千春を師と仰ぎ、弾き語りながら、
ネット&通販で、月収100万円を稼ぐ!」のタイトルで、
アメブロも投稿しております。
引越の手続きをしたのですが、
2011年8月1日に、アメブロカスタマーサービスより、
メールで連絡があり、
「何らからの特定出来ない原因によって、引越が出来ません。」
とのこと・・・・・・
よって、その日からは、両方のブログへ投稿することにしました。
2011年7月27日以前の過去ログに関しては、
このseesaブログに掲載しておりますので、
こちらでご確認して戴いて、それ以降は、
アメブロでも、ご確認戴けます<(_ _)>
ブログでの記事内容は・・・・・・
質の良い無料&激安情報!
価値ある情報コンテンツ&セミナーを厳選して、ご紹介致します!
ブログ以外では、ツイッターで、つぶやき紹介もしております!
⇒ https://twitter.com/#!/kamesann3
また Youtubeでは、
私の大好きな松山千春さんのギター弾き語りカバー動画を、
毎日、アップしております。
⇒http://www.youtube.com/user/kamesann3chiharu?feature=mhee
ブログの中の私は、そんな私ですが・・・・・・
ブログを作成するに至るまでのブログ以外の私を、
「48歳現在までの自己プロフィール人生体験記」と題して、
ご紹介したいと思います。
え〜と、タイトル名にもありますように、現在 48歳のおっちゃんです。
そんな私ですが・・・皆さんとは、また異なる人生を歩んで、
現在に至っている訳で、
これを読んで戴いているということも、
何かのご縁・巡り逢わせかとも思いたく・・・
「どんな、おっちゃん なんやろう?!」と怖いもの見たさ、
お時間があれば、暇つぶしでも構いませんので、
ちょっと、一読してやって下さい。
私より若い方が読んで戴けたら、
その年齢差分の
「何かその先に役立てて戴ける事」があるやもしれませんし・・・
「先に」「生まれた」だけの「先生」として・・・
私より年配の方が読んで戴けたら、
その年齢差分の「過去の自分の姿」だと思って、
偉そうですが、「現在の私に叱咤激励・忠告」など、
「人生の先輩」として、して戴けたら・・・・
たいへん、有り難く思います。
・1963年(昭和38年)4月生まれ
同月日生まれの有名人・・高田延彦(格闘家)
笠井信輔(フジテレビアナウンサー)
田中康夫(作家)・森川由加里(歌手)
中田ボタン(漫才師)
広瀬香美(シンガーソングライター)
小原春香(AKB48)
アンディ=ガルシア(俳優)
吉澤ひとみ(元モーニング娘)等
・三重県出身・在住
・身長 173p
・体重 77.8s
(ダイエット中の為変動 標準体重の65.5s目標!)
・趣味 パソコン・ギター・唄う事・松山千春さん・女房
・仕事 フリーランス
(アフィリエイト・ネットビジネス・通販などいろいろ)
・学歴 某私立大学卒
・家族 天然な愛妻・大学生の一人息子
・座右の銘 慌てず急いで、無理せず怠けず全速前進!
雨垂れ石を穿つ!
1963(昭和38)年、サラリーマン、クレーンの運転手の父と専業主婦の母の間に生まれる。
父親は、戦時中、台湾で生まれ七人兄弟の二男として、
わがままに育ったせいか、我を通して怒る時は、
非常に鬼の様で、恐い存在でした。
(注・・・父は、台湾人ではありません。日本人です。)
母親は、私が小学校4年生ぐらいまでは、専業主婦でしたが・・・
家が、元倉庫だったものを改造して作られたボロ家だったので、
私に、広い子供部屋を与えて上げたいと、そのお金を稼ぐ為に、
化粧品の販売の仕事をするようになり、
それから、私は、鍵っ子になりました。
現在は、もう あまり見かけないと思いますが、
トイレが所謂、「ドッポン便所」で、水洗では無く、
便器に穴が空いてまして、その下は、便を溜めるタンクになっていて、
そこを目がけて、便を落とすというシンプルなトイレでした。
(時折、便のおつりがっ!汚くて、すいませんm(__)m)
一か月間以上は、便を溜めてあり、
清掃業者(バキュームカー)が処理しに来るまでの間、
大変な悪臭を放っておりますので、当然ながら、
トイレは、家の中にはなく、外にありましたから、
雨の日や、夜中にトイレに行くのが、非常に、面倒でした。
ある日の出来事・・・・・・
トイレに入ろうとして、ドアを開けようとしても、鍵が掛っていて・・・
でも、誰も家族の者が入っているはずないのですが・・・
するとトイレの中から知らない人の男の声で、
「すいません。ちょっと借てました!」って
笑
私は、自己判断ですが、幼少の頃から、どちらかというと内向的で、
父親が恐いというのも要因で、家の中で、
「タイガーマスク」のビニール人形などで、
一人で、大人しく遊んでいることが多い少年でした。
高校受験までは、全然、勉強せず、もちろん、成績も悪いのですが、
学校へ行くのが大好きで、
と言っても、休憩時間だけが、大好きなのですが・・・・・・
「次の休憩時間は、何して遊ぼうかなあ・・・」
と授業中に一生懸命に考えてました。
内向的なくせに、人に注目してもらいたく、皆を笑わせたり、
驚かせることも大好きでした。
今から、思うと、
「そこまでしなくとも・・・」と思うようなこともヤッてまして・・・
何故か、給食の時に残したパンを、教室の地べたに置いて、
自分は、ロッカーの最上段に上がり、そこからパン目掛けて、
飛び降り、そのパンに「ニードロップ」して、
つぶれたパンを食べるという、どういう芸当なのか・・・
そのパンを食べた後の同級生達の歓声や、笑い声がたまらず、
快感になって、何度もヤッていたのを思い出します。
バカです。
とにかく、テレビゲームなんてなかった時代ですから、
自分でゲームを創作して、もちろん超アナログゲームですけど、
遊んでいました。
わたしの最高傑作ゲームが、小学校5年生の時に開発(?)した
「目隠しボンボン」に優るものは無かったです。
このゲームは、鬼になった人が、タオルやハンカチなどで、
目隠しをしたまま、予め逃げられる可能範囲内に居る者を捕まえて、
その捕まえた人の名前を当てることが出来たら、その者と鬼を交代して、
また繰り返し捕まえ、名前を当てるゲームです。
ここまでは、普通の「目隠し鬼ごっこ」と変わりがないですが・・・・・・
ただこのゲームには、鬼に対して、給食当番の服を入れた巾着袋で、
「目隠しボンボン」と言いながらであれば、捕まらない様にする為、
防御の意味で、叩くことが出来ますが、叩くことによって、
自分の声がバレテ、捕まった時に、
すぐに名前を言い当てられてしまいますので、その調整が難しく、
このゲームのミソとも言えるでしょう。
それで、ある放課後・・・・・・
いつもの様に、友達と教室の後ろの方で、「目隠しボンボン」をしていて、福田君が、何回目かに、鬼になってから、
このゲームのコツというものが分かってきたせいか、
逃げるのが上手くなり、なかなか、鬼をチェンジすることが
出来なくなっていました。
それもそのはず、鬼以外が、まったく声を出さずに、
ひたすら音も立てず静かに逃げ回るものですから、
鬼は、何処に友達がいるのかも分からず、
捕まえることもままならない上に、やっとの思いで捕まえたとしても、
友達が声を押し殺しているので、その友達が誰なのかも分からず、
名前を当てることすら出来ません。
そこで、その福田君は、考え抜いたすえ、
「必殺技」をあみだしてしまいました。
名付けて、「チ○チ○ぶらぶらウォーク戦法」
この必殺技は、鬼の福田君が、いきなりズボンとパンツを下ろして、
下半身丸出し状態のまま、私達に向かって、突進して来るのです!
この情けない姿には、たまらず全員が大笑いしてしまって、
逃げることも出来ず、あっと言う間に捕まり、
すぐ名前も言い当てられてしまいました。
それ以来、鬼が、なかなかチェンジ出来なくなると、
すぐ その必殺技を使うのが当たり前になり、いつの日か、放課後は、
下半身の安売りオンパレードでした。
子供って、「チ○コ」や、「ウ○コ」ネタって、本当に好きですよね〜。
あと、小学校4年生の時だったと思いますが・・・・・・
普通の鬼ごっこを小学校のグランド内で遊んでいて、
自分は、高い塀の上に乗っていて、鬼からのタッチを逃れていたのですが、鬼が高い塀に手を伸ばし、私の足元をタッチしようと迫ってきたので、
その手をまたいで、かわそうとして、塀から足をすべらせ、
頭の方から転落、頭が地面に着く瞬間、頭を守ろうとして、
右手首をひねった形で地面に手を着いてしまった為、
右手首を骨折してしまいました。
折れて変形した右手首を左手で支え、号泣しながら、
学校から一人で、家路に!
学校から、家まで徒歩で10分ぐらいの距離で、比較的近い距離ですが、
その時は、「母を訪ねて三千里」ぐらいの心況でした。
道中、私が号泣しながら、歩いているものですから、
私を知っている近所のおばちゃんや、おじちゃん達は、心配して、
優しく声を掛けてくれるのですが、まさか、骨折しているとは思えず、
「鬼ごっこでもして、転んだのかい?!」
「早くお風呂に入って、寝なさいね。」と気楽なものですw
そして、家に到着したものの我家は、共稼ぎで、
両親とも誰も居ないことを思い出し、
さらに、大声で叫びながら、泣きじゃくっていたら・・・・・・
家の向かいが、父親の母屋になっていて、その泣き声を聞き付けて、
おばあちゃんが私に駆け寄ってきて、変形したその右手首を見て、
これはただ事ではないと思い、また母屋に引き返し、
おじいちゃんにその旨を伝え、おじいちゃんの軽トラックに乗せられ、
病院へ連れて行かれました。
私の右手は、骨接ぎの後、固定する為、肘のところまで、
石こうで固められました。
全治六カ月。
治療が済んで、痛みが無くなったとたん、
そこは、子供なんでしょうねぇ〜w
石こうで巻かれた自分の右手が、当時、流行っていた
「ライダーマン」のアタッチメントみたく思えて、
何故か、嬉しく感じていました。
その翌日、学校へ登校すると、案の定、友達に取り囲まれ、私は、英雄に!
「カッコえーなー」「ちょっと、触ってええかあ。」「痛くないのか〜」
など、インタビューの総攻撃でした。
右利きだったので、食事をする時だけは、不自由を感じましたが、
それ以外は、嬉しくて、ソフトボールなどをして遊ぶ時も、
バッティングは、バットを使わず、
その「ライダーの右手」を使って打ったりしてました。
もう「ライダーマン」に、自分は成り切ってましたね。
ただ3ヶ月ぐらいも経過すると、その右手だけは、ずうっーと風呂などで、洗ってない訳ですから、垢などで、痒くて、割り箸を左手に持ち、
石こうの中の右手をかいていました。
そして、六か月が経過し、石こうを取り外す日となり、
おばあちゃんに病院へ連れて行ってもらいました。
医師が小型の電ノコみたいなもので、石こうを切って開いて、
久しぶりに自分の右手とご対面。
右手は、垢で、真っ黒! 少し痩せた腕が、臭っている様でした。
それで、右手を診察する時、
医師が、正常に骨が接合出来ているか確認する為、私の右手を、
いろいろと動かしているのですが、
私は、骨折治療の骨接ぎの痛みを思い出し、「嫌だ」と思った瞬間、
その診察室を飛び出して、逃げてしまいました。
その後、しばらくして、分かったことですが・・・・・・
私の右手は、手の平を上に向ける、
「頂戴」のしぐさが出来ない状態になってました。
誰かから、物を貰おうとして、右手を差し出したものの、
手の平を上に向けることが出来ず、その時、自分で気づきました。
たぶん、薮医者だったのでしょう・・・・・・
まあ、私も最後の診察を逃げてしまったので、
医師も、その事に気づくことができず、
治療が終了してしまったから、仕方のないことなんですけどね。
未だに、その症状のままです・・・・・・
高速の料金所や、マクドナルドのドライブスルーなどは、
運転席が右側にある日本車に合わせて、受付窓口も右側にありますので、料金のやり取りで、おつりを貰う時など、
私は、右手で普通に受け取ることが難しいので、
ちょっと工夫が必要です。
それ以外は、いったって、普通に過ごしていますし、
家族だって、私から、その話をするまでは、
まったく気が付かないぐらいですから、大丈夫ですし、普段通りです。
そんなワンパクぶりもあった小学生時代でしたが・・・・・・
自転車で、30分ぐらい走ると、近鉄百貨店がありまして、友達とたまに、ウィンドウショッピングがてら、遊びに行く時がありまして、屋上には、
ゲームセンターみたいな遊具があって、
そこで、遊ぼうということになって、屋上にあがってみると、その日は、
いつもと様子が異なり、イベント会場になってまして、
何のイベントかと言いますと・・・・
「どんぐり音楽会」の予選会場となっていました。
「どんぐり音楽会」と言うのは、テレビ番組のタイトル名で、
小学生迄限定の「のど自慢」番組でした。
私は、幼少の頃から、唄う事が大好きで、よく人前で、
唄ったりしてました。
父親が唄う事が好きで、よくカセットレコーダーから流れてくる
「石原裕次郎さん」などの演歌や歌謡曲などを、唄ってましたので、
その遺伝子を受け継がれているのだと思います。
ちなみに、故 石原裕次郎さんに代わって、渡 哲也社長の
石原プロモーションの専務 小林正彦さんは、父親と従兄です。
未だに、父親方の親戚の誰かの冠婚葬祭で、
弔電や祝辞、花輪などに、
「石原プロモーション 代表取締役 渡 哲也」とあり、ビックリ!
その事実は、私が、大学生になってから、両親から教えられたのですが、
当時、「西部警察」が放映中の頃、ロケで、近くに
「長島温泉スーパーランド」という大きな遊園地も含む、テーマパーク
へ、石原軍団も来ていて、当時、見学と称して、小林正彦さんに
逢いに行くと、舘ひろしさんを紹介して戴いて、
一緒に写真を撮って戴いた思いでがあります・・・・・・
流石に、渡 哲也社長は、ご紹介戴けなかったですけどねw
話を戻しますと・・・・・・
当時は、カラオケなども、無かったですから、
テレビやラジオから流れてくるお気に入りの歌に合わせて、
一緒に唄うって感じでした。
私は、親戚の家などに遊びに行ったりすると、
祖母や祖父、父や母の兄妹の前で、当時、流行っていたアニメソング
(ゲゲゲの鬼太郎・タイガーマスク・マジンガーZ・あしたのジョー・巨人の星など)
または、ウルトラマン・仮面ライダーなどの主題歌や、歌謡曲・演歌など、
とにかく、披露してましたw
また歌を聴いてくれている親戚のおじさんやおばさん達が、
絶賛してくれるものですから・・・・・お世辞なんでしょうけど・・・・・
幼心には、十分過ぎるほどの勘違いをしてしまいまして・・・・・・
その頃の私の夢は、「歌手」になる!でした(笑)
小中学校の卒業文集には、「歌手になる為に、ピアノをおぼえる」と言った様な事を書いてました・・・・・・
結局は、ピアノを習う事もせず、夢 破れたんですけどね。
その当時に、芽生えた「歌手になる」という強く熱い思いが・・・・・・
現在では、Youtubeへ「松山千春さんの楽曲、弾き語りカバー動画」
をアップするに至ってしまったのでしょうね。
完全な趣味の領域ですが・・・・・・
そして、また 話を「どんぐり音楽会」予選会に戻しますが・・・・・・
チビっ子達が唄っている姿を見て、フツフツと「歌手になる」熱い思いが
沸騰して参りまして、気がついたら、舞台の上で唄ってました(笑)
選曲した歌は、「ドナドナ」でした。(♪ドナドナド〜ナ ド〜ナ♪)
突如、予選に出場したものですから、歌詩もオボロゲでしたし、
いつもの親戚の人数より、かなり大勢の観客もいて、緊張したせいか、
満足に唄えず、みごと「鐘一つ、♪カ〜ン♪」で、落選!(笑)
最後まで、唄わせてもらえなかったし、ホント
悔しかったのを覚えています。
それでも、夢を諦めていませんでした。
「ポジティブな自惚れ」って、恐いもの知らずです。(笑)
大人になると、「ポジティブな自惚れ」がなくなってくるのでしょうね。
それから、中学生になって、「歌手になる為」クラブ活動は、
「合唱部」に所属しましたが、
初めて部活に参加して、顔ぶれをみたら・・・・・・
なんとっ!部員全員、女子だけっ!(笑)
最初は、我慢して練習してましたが、さすがに居づらくなって、
「合唱部」を一カ月で辞め、あっと言う間に、「帰宅部」に!
でも、まだ「歌手になる」夢を捨てた訳ではないので、文化祭では、
有志として、「歌を唄う」ことを、披露していました。
熱い少年でした(笑)
中学一年生の時は、エレクトーンを習っていた同級生に、
伴奏を弾いてもらって、野口五郎さんの「針葉樹」を唄いました。
体育館の観客席に座っている先輩女子から、黄色い声援が、
いっぱい聞こえてきました。
その後、一人の先輩女子から、ラブレターを貰ったこともありました。
また父親に、ギターを買ってもらい、練習し出したのも、
その頃からでした。
ギターのメーカーは、アリアで、当時、一万円ぐらいだったと思います。
中学二年生の時は、まだ ギターが上達してないので、また友達の伴奏で、
沢田研二さんの「LOVE〜抱きしめたい〜」を熱唱してました。
そして、中学校三年生になった頃に、ギターを弾けるようになり、
友達と二人で、ギターの弾き語りで、かぐや姫の「妹」を唄いました。
でも、中学三年生ともなると、高校受験がひかえておりまして、
夏休み前の三者懇談会の時に、担任の先生から、このままでは、
合格出来る様な高校は少ない様なことを言われて、帰宅してから、
母親は、「黒い涙」(アイラインが涙で流れる)を流しながら、号泣し、
「あんた、これから、どうするの?!」と怒鳴られました。
その後、家族会議の結果、両親は、勉強を教えられないし、
今から、塾通いしても、学校と同じスタイルなので、身に付かないし、
受験迄に間に合わないということで、
知り合いの元三重大学生に、家庭教師をしてもらうことになりました。
すると、どうでしょう?!
今まで、頭の中は、空っぽだったからか、教えてもらったことが、
ドシドシ スースーと覚えることが出来、メキメキと学力が上がり、
テストも全科目、60点以上取れるようになり
(以前は、ほとんど20点以下)、
教師や同級生達がカンニングしているのではないかと、
不思議がるぐらいでした。(笑)
その後も、猛烈に勉強を続けて、
「行ける高校が無い」と言われていた私が、
進学校では無かったですが、県立高校 普通科に
入学することが出来ました。
三者懇談する以前は、友達の中の一人が、
進学せずに就職すると言っていたので、私も、勉強が嫌いだったし、
働いた方が、お金も入って、自分の好きな物も購入出来るので、
その方が良いと思っていたぐらいだったので、
よく勉強出来たなと自分自身に、感心しています。(笑)
やはり、真剣に就職先のことを考えてみても、
働きたい会社が思い浮かばなかったし、「私の夢は、歌手になる」ことで、歌手=仕事という感覚がなく、オーディション番組の「スター誕生」で、
グランドチャンピョンにならないと、なれないと思っていたし、
就職を選んだ友達以外の友達は、全員進学するようだったし・・・・・・
とどめに、「母親の黒い涙」が決め手となって、
勉強する気になったんだと思います。
その後の高校生活は、引き続き勉強癖がついたみたいで、
毎日、ちゃんと、復習しておりました。
休みの日は、8時間ぐらい勉強して、普段は、2時間ぐらい勉強してました。
テストの日は、当然、授業が無いので、早く帰宅出来るのですが、
逆に復習することが無いので、翌日のテスト勉強というより、
暗記の確認を15分ぐらいするだけで良かったので、
私にとっては、「テストがある週は、勉強しなくても良い週」だったので、大好きでした。
他の同級生達は、テスト週間だけ、徹夜してでも、頑張っていたので、
私とは、真逆でした。
そんな感じで、マイペースに、しっかりと勉強していたので、
入学時の学年順位は、まん中辺りでしたが、
高校一年の一学期の期末試験から、学年一位の成績となり、その後は、
順位を落とすことなく、高校三年迄、
学年トップで卒業することが出来ました。
また、そのまま、大学受験戦争に巻き込まれることもなく、
学校推薦してもらい、
面接と論文試験だけで、某私立大学へ入学することが出来ました。
高校生の時は、勉強ばかりしてましたけど、
「歌手になる夢」を諦めていた訳ではなく、
ちゃんと、高校二年生の文化祭には、中学校三年生以来、久しぶりに、
有志で、出場しました。
今回は、ギター一本、たった一人の弾き語りで、
南こうせつさんの「流れ星」という曲を唄いました。
最初は、高校も同じ学校になった中学生時代からの友達と、
一緒に、グループで、出場しようと話しをしていたのですが・・・・・
何故か、その友達と選曲の意見が合わなくなってしまって、
別々に出場することになりました。
そして、その友達は、私が唄った後に、
さだまさしさんの「檸檬」という曲を唄いました。
在校生の歓声は、私の方が、たくさん あったような・・・・(^^♪
その後、バレンタインの日に、同級生の女子から、
チョコレートを貰いました。
たった一人だけですけど・・・・・・
でも、嬉しかったです・・・(ちなみに、今の女房では、ありませんw)
歌を唄ったもう一人の友達は、
チョコレートを貰えなかったみたいですが・・・・・・
その友達は、陸上部で、マラソンが得意で、学校の「マラソン大会」では、
毎年、全校生徒の中で、一番、速かったです。
私は、マラソンは、もちろんのこと、体育だけ、成績が悪く、
運動は、苦手でした。
でも、お互いジャンルは違えど、学年のトップ同士で、仲が良かったです。
その友達とは、同じ三重県内に在住ですが、お互い距離がありますので、
今は、年賀状のやり取りだけの仲となってしまいました。
高校を卒業してから、専門学校(何の専門だったか忘れた)に進学して、
愛知県にある小さな旅行会社に勤めたみたいです。
二人とも、生まれてから、ずっと三重県で生活しておりますが、
私の方は、県内で、ちょこちょこと、引越をしておりまして・・・・・・
引越の理由は、さまざまなんですが・・・・・・
過去に、11回も引越をしています。(多っ!)
最初の引っ越しは、私が、高校一年生の時で、
母親が稼いで貯めた300万円で、家の頭金と新調した家具代に使い、
念願であった鉄筋コンクリート2階建て、
今回は、水洗トイレ(笑)付の新居に引っ越し出来ました!
2回目の引越は、その1年後で、私が、高校2年生の時です。(早っ!)
何故、そんな短期間で、引越することになったかと、言いますと・・・・・・
両親の離婚です。
父親は、大のジャイアンツファンで、酒が大好き・・・
毎晩、定時の17時に仕事を終え帰宅して、一番風呂に入り、
野球観戦をしながら、晩酌をするのが、大好きでした・・・・が・・・
それは、ジャイアンツが勝っている時だけ、負けだしたりすると、
家族に八つ当たりが始まります。
特に、母親に・・・そして、年に最低一回は、大ゲンカに発展します。
母から事情を訊くと、昔は、父が、よく手を上げていたようですが・・・
基本的には、大声で、罵倒しながら、
近くにあるすべての物を破壊し回ります。
星一徹は、卓袱台をひっくり返すだけなので、まだ可愛い方です。
その時は、生涯の中で、一番激しい夫婦喧嘩で、母親は、心臓麻痺を起してしまいました。
そして、あえなく離婚となり、私と母親は、祖父母宅へ引越となります。
だから、母と私は、新築したばかりの家に、一年だけしか住んでいなかったことになります。
ちなみに祖父母宅も、また 水洗トイレではありませんでした。(T_T)
そして、3回目の引越が、祖父母宅に、
いつまでも居候する訳にもいかないと・・・
母親の一番下の妹が彼氏と同棲しているアパートに
空き部屋があることを知り、そこに、何故か、
母親が職場で仲良くなった新しい男と、
合わせて三人で同居生活が始まりました。
ちなみに、そのアパートは、水洗式ですw
それ以降は、すべて、水洗式の住宅へ引越しておりますw
まあ、私なりに高校生と言えど、女手一つで生活していくには、
収入面も大変だと理解していましたし、優しそうな人だったので、
交際も、同棲することも、承諾してました。
(大人じゃん<(`^´)>エッヘン)
でも、その男は、その15年後ぐらいには、他に女が出来たので、
母親と離婚することになってしまうんですけどね。(T_T)/~~~
母親は、バツ2ということで・・・・・・(笑)
そして、さらに、4回目の引越です。
そのアパートは、2Kで、
三人で住むには狭く、家賃も割高だったこともあり、
公団住宅に以前から申請していたので、晴れて当選して、
引越することになりました。
私が、高校三年生の時でした・・・・・・
ただ そこのアパートへ引越して、一年も経過しない内に、
また引越することになります。
母親の彼氏が、私が大学へ進学する為の費用を用意出来ないとのことで、
母親が私を父親の元へ戻すことを決意したからです。
父親は、私のことを嫌っていた訳でもありませんし、経済的にも、
父親と一緒に暮らした方が、
私が幸せだと判断してくれたのでしょう・・・・・・
もちろん、父親は、気持ちよく受け入れてくれて、
今まで、一人で生活していて、よほど寂しかったのか、
私が再度帰宅したその日に、いきなり キャッチボールしようと言い出し、私が幼少の頃に覚えている父親の優しい時の顔をしてました。
でも、私は、凄く照れくさかったです。(照)
また、その時は、夏休みで、住んでいる町の近くの公園で、
盆踊り大会が開催されていて、
キャッチボールした後、父親に、再び誘われて、会場へ行きましたw
さらに・・・・・
夜になったら、今度は、近くの「スナック」へも連れていかれましたw
そして、冗談で、未成年である私に、アルコールをススメてきましたw
もちろん私は、断って、ウーロン茶を注文しました。
少し、父親は、さびしそうでした・・・・・・
そうやって、引越当日は、バラエティーに過ごしましたが、翌日からは、
「家を出る前」と同じ状態で、無口な二人になりましたw
でも、父親は、以前より、ほんの少しだけ、
優しくなっていたように感じていました。
その後の二人だけの生活は、平穏に過ぎてゆき、
いよいよ私が、大学へ推薦入試を受ける少し前に、
両親が離婚していることを知っている担任の先生が、心配して、
私の家まで、父親と話に訪問してくれました。
心配というのは・・・・・・
後日、母親から聞いた話ですが、父親は、ひょんな事で、
へそを曲げる癖があって、
途中で、「大学へは進学させず、働かせる」ということになると、
母親の計画が台無しになってしまう為、学校の担任の先生へ、
母親から頼んで、父親へ進学をススメる手はずだったとか・・・・・(笑)
母は、強し!
母親が息子に対する愛情っていうものは、凄まじいものがありますね。
だから、嫁と姑は、争いが絶えないのでしょうね。
そして、無事、先生と父親との対談が終了して、先生は、帰宅し、
父親は、何故か、上機嫌でしたw
それから、しばらくして、推薦入試を受験して、高校三年の11月頃には、
先生から、合格が伝えられ、
その後、高校の期末試験とかがありましたけど、
大学を合格したら、「こっちのもの!」てなもので、
まったく勉強しなかったので、小中学生の時の様に、答案用紙は、
20点以下のオンパレードで、クラスメートに、
その答案用紙を見せまくって、皆、ビックリしてました。
今まで、勉強一筋って感じで、高校生活を過ごしてきたので、
私もやっと、吹っ切れて、また ひょうきんな自分に戻れて、
逆に、クラスメートと、以前より増して、仲良くなれました。
その頃、テレビ番組で、「ザ・ベストテン」という名の人気歌番組の中で、
松山千春さんの「長い夜」という曲が、
連続一位の記録がつづいておりまして、
普段は、出演しないのですが、その時は、コンサートが終った後、
「長い夜」を初めて、生で放送されまして、
私は、興奮しながらテレビを観ていたのを覚えています!
それで、翌日、学校へ行って、興奮覚めあらぬ中、
休憩時間に私が、教室の中で、昨日のライブ風景みたく、
「長い夜」を唄いましたら、凄く皆にウケて、その後、
国語の授業時間になって、先生が教室に入ってきて、
みんなが楽しそうに騒いでいたので、
先生が、「何をしていたのですか?!」とクラスメートに笑顔で尋ねると、
誰かが、私が、「長い夜」を熱唱していたことを告げると、
学年一位の私が、「歌を唄った」ことに興味を持ったのか・・・・・・
先生からも、「もう一回、唄ってみて!」と促され、
クラスメートからも催促の歓声が上がり、
再び、「長い夜」を熱唱することになりましたw
授業中に!(^◇^)
その歓声と、手拍子は、もちろん 隣の教室にも聞こえた訳で・・・・・・
隣のクラスメートまで、「何事かっ?!」と覗きに来るしまつ・・・・・・
前代未聞! 私にとっては、大変良い思い出です(^O^)/
そして、楽しい高校生活も終わり、大学生活へと進学していく訳です。
名古屋市内にある某私立大学への通学時間は、一時間半ぐらいで、
毎日、近鉄電車と、地下鉄を利用していまして、どちらも、満員で、
凄まじい混み具合でした。
鞄を手で持たなくても、人と人の間に挟まれて、浮いてましたw
大学へ入学しても、やはり私の夢は、「歌手になる!」ことでしたので、
軽音楽部とか、とにかく、音楽関係の部活に入って、
バンドを組もうと考えて、
良さ気な部活がないか、物色していましたw
(ホントに、懲りない男です。w)
そして、物色中に、軽音楽部の片隅で、
先輩へアピール中の新一年生がギターを披露していました。
唄っていた曲は、私の大好きな松山千春師の「旅立ち」という曲で、
弾き語りをしていました。
唄い終わると、先輩から、
「高音で唄えてるけど・・・声が小さいというか、声量が無いね・・・」と言われていました。
翌日、私は、音楽同好会という軽音楽部と別の部活を物色していたら・・・
また、昨日の弾き語り男を発見!
部活の片隅で、今度は、一人で弾き語りをしていました。
私は、その男に近づいて、
「千春、好きなの?! 俺も好きなんだあ・・・・・」
と声を掛けてみました。
そしたら、男は、言葉少なに、「うん。」と頷きました。
昨日、軽音楽部でも、唄っていたところを見かけたことを話し、
入部を決めたことを確認したら・・・・・・
軽音楽部にも、入部してないし、まだ他の部活を見学中とのこと。
しばらく、お互いに、弾き語りで、いろいろと披露し合って、
過ごしていました。
お互い、「唄には、自信がある」みたいで、小さな火花が出ていましたw
ただ、その男は、ギターには、自信が無いみたいで、
私に、弾き方を確認していました。
それ以降、お互い名前も知らないまま、別れて、
大学内で、まったく見かけなくなりました。
そして、月日が流れて、大学三年生の春・・・・・・
新聞紙に掲載されている広告に目が止まりました。
「タレント養成学校、オーディション開催!」
入校要項を確認すると、タレント・歌手・俳優等志望者の募集で、
年齢制限は無く、一次試験と二次試験を合格した方は、入学出来、
二年間志望学科を学んだ後、
芸能会社へ就職を斡旋してくれると明記されていました。
一次試験は、書類選考で、上半身の写真を貼付した履歴書を送付して、
一次試験合格者へは、二次試験の案内書を送付されるので、
タレント養成学校内にて、面接とオーディションとありました。
「私の夢は、歌手になる」ことでしたので、一日だけ、よく熟考して、
再認識することが出来たので、翌日、応募してみました(笑)
すると二週間後ぐらいに、一次試験の合格通知が郵送にて届きまして、
また その一週間後の二次試験へ臨みました。
二次試験会場は、名古屋市内にあるタレント養成学校内で、
だだっ広い会議室の様なところで、
試験官が十数名、会場の中を円状に並べられた机が配置されていて、
椅子に座り、そのまん中で、志望者が自分自身をアピールして、
採点されるって格好でした。
五名づつ名前を呼ばれるので、
呼ばれたら、空いている試験官の前に立ち指示を待って、
他の志望者も見ている前で、面接が始まる段取りで、
私は、順番を待っていました。
数十分待つと、
私の名前が呼ばれ、席が空いている試験官の前に立ち指示を待ちました。
最初は、試験官が履歴書を確認しながら、志望動機や、合格後の展望や、
熱い思いなど、質疑応答があり、それが一通り済むと、
アピールタイムとなり、私は、歌手志望だったので、唄を披露すると、
待ち構えていたら、その様な指示は無く、
何故か、
「道を歩いていたら、財布が落ちているのを発見して、ネコババする演技」
をする様に、指示がありました!
????????
私は、試験官が俳優志望と勘違いしていると思い、
「すいません・・私・・・歌手志望なので・・・唄はなくても・・・?!」
と確認したら、ちょっと立腹した様子で、「あとで・・・」と一言。
解せないながら、「ネコババの演技」を初披露してみました。(笑)
その後、試験官の前に、着席して、再び質疑応答があったが、
唄う様な指示はなかったです。
???????
それで、私の試験は終了したみたいで、元の位置に戻されました。
(否決されたかな・・・)
落胆して、自分の席に戻った時に、何処かで聞いたことのある唄声が・・・
なんと! 部活を物色していた時の「弾き語りの男」でした!
再び、彼が唄う松山千春さんの「旅立ち」という曲でした。
試験官の前で、アピールの為、唄っていました。
こんなところで、また あの男の唄声を聴くなんて・・・・・・
ビックリ(@_@;)
その後、彼と会話することもなく、オーディションの全日程が終りました。
さらに、二週間が過ぎた時・・・・・・
タレント養成学校から、一通の手紙が届きまして・・・・・・
急いで開封してみたら、「俳優部門 合格」とありました。
えっーーー!「俳優部門・・・・?!」
歌手志望だったのですが・・・・・・俳優?!
嬉しいやら、悲しいやら、複雑な心境でしたw
学校へ、部門の間違いだと、問い合わせしようかと思いましたが・・・・
まあ、オーディションの時に、唄を披露することなく、
「ネコババの演技」をしただけで、心当たりがあるので、
問い合わせは、思い留まりました。
それで、入学要項の書類を読み進めていると、
入学を確定するには、入学書類に、記入捺印し、書類を返送して、
入学金60,000円を期日までに、振込する様に、指示がありました。
私は、期日迄、よく考え、「歌手は、俳優デビューした後でもなれる!」
と結論に達して、書類を返送し、入学金を送金しました。
(まず、俳優デビューも確定してないやろっ!(笑)
若さゆえの過ち!
本人は、舞い上がっておりまする!
そして、入学完了通知と共に、「学生証」が同封されてきて、
毎週日曜日、通学する時に、その「学生証」を通行証代わりに使用します。
初登校の時、決められた教室へ行ってみると、
早くも、同じ「俳優部門」の生徒達のほとんどが出席していて、
見渡すと、クラスメートは、老若男女、バラエティーでした(笑)
とりあえず、この教室内には、「例の弾き語り男」は、居ませんでした。
まあ、彼の場合は、私と同じ「歌手志望」で、歌も披露していたので、
別の教室に居るのか・・・・・でも、他に、教室が見当たらないので、
どうなっているのか?!
合格したのか、不合格になったのかも、まったく分かりません。
あれ以来、大学内でも、まったく会わなくなったので、消息不明です。
私が席について、しばらく待っていると、
開始時刻に講師が入室しました。
男性で、年齢は、35歳ぐらいに見えました。
最初は、まず 講師の自己紹介から始まり、
次は、出席簿順に、各生徒達の自己紹介をしました。
つづいては、この学校での入学から卒業までのレッスン概略と、
卒業からデビューについての話が一通りされました。
そして、初日のレッスンは、「発声練習」でした。
腹式呼吸法の説明を受け、実際に、講師のオウム返しで、
発声を繰り返し行い、
その日、二時間の講習が終了しました。
初日で、勝っても分からず、緊張していたせいか、帰宅するなり、
ドッと疲れた感覚になりました。
そうやって、毎週日曜日に通学するようになって、一か月が経過した頃、
私は、「マンネリ感覚」で、いっぱいでした。
なんというか、レッスン内容しかり、
レッスンを受けている生徒の顔ぶれしかり、
講師陣しかり、このまま 二年間、レッスンを受け続けていっても、
「果たして、デビュー出来るのであろうか?!」という
掴み処の無い不安でいっぱいとなり、とうとう、レッスン中に、
貧血みたいに、ちょっとフラっとよろけてしまいました。
すかさず、講師がそれに気付き、「顔色が悪いぞ、大丈夫かっ?!」と
心配して声を掛けてくれました。
貧血みたいなものは、すぐに回復したのですが、授業の終わりに、
また新たな悩みが・・・
授業が終わる10分ぐらい前に、講師の方から、
「あるチケット」が10枚づつ、
生徒達に配布されまして、それについて説明がありました。
そのチケットは、
この「タレント養成学校」が主催している演劇チケットで、
学校の卒業生達が出演している演劇で、入場料チケット一枚につき1,000円とあり、招待券みたいでした。
で、問題は・・・・・・
そのチケット十枚を、一か月以内に、友人・知人・家族・親戚などに、
手分けして、売って来てほしいとのことでした。
仮に売れ残ったチケットは、
自分自身で購入してでも完売してほしいとの依頼でした。
私は、帰宅してから、また非常に悩みました。
夢を実現させる近道として、この学校に入学した訳ですが・・・・・・
「歌手志望」なのに、俳優として、
なんとなく不安を覚えるレッスン内容と、
今回の様に、チケット販売を、今後、度々依頼されると思う不安と、
経済的な不安とで、さまざまな問題が頭の中をグルグルと廻り、
一週間考えた末、退学することに決めました。
もちろん、夢を諦めた訳ではなく、「航路変更」です!(笑)
(「諦めが肝心」と言う言葉を知らないみたいですね)
そう決めたら、早速、「タレント養成学校」へ連絡をして、
退学を伝えました。
受付の女性が、「早すぎる退学」を懸念してか、
「入学金の返金は、出来ませんが、大丈夫でしたか?!」と
確認してきました。
そして、晴れて、「ただの大学生」に戻りました。
その頃、授業の必修単位は、確実に取得してきたので、
(成績は、下限ギリギリ状態)
月曜日以外は、授業が無く、
それ以外は、毎日、アルバイトをしておりました。
アルバイトの職種は、
カセットテープや、ラジカセなどのワゴンセールスでした。
近鉄百貨店のテナントで、
楽器・レコード店が実施しているワゴンセールスです。
近鉄百貨店は、近鉄駅と百貨店とが通路で繋がって、コンコースとなり、
その場所で、ワゴンに商品を積んで、8つのワゴンに囲まれて、
その中に私が入って、販売してました。
当時、ワゴンセールには、レジのようなものは無く、電卓で計算して、
お金を受け渡ししてました・・・・・・
でも、二年間も、同じバイトをしていると、
自然に、商品単価をすべて暗記出来ていましたし、電卓を使わなくても、
暗算出来るようになってました。
このアルバイトで、私が気に入っている点が、いくつかありまして、
まずは、売場には、自分一人しか居ないので、
上司から叱られることもなく、
リラックスして仕事が出来ることと。
アルバイト中は、売り物であるラジカセを試聴させる意味合いで、
カセットテープに録音してある音楽をBGMとして流しているのですが、
そのカセットテープは、持ち込み出来たので、
自宅から自分の好きなアーティストのカセットテープを持参して、
好きな物を好きなだけ流していました。
私が唄う音楽は、
松山千春さんとか、南こうせつさんの様なフォークミュージックでしたが、「聴く音楽」の方は、専ら洋楽ばかりでした。
大学一年生の時、新入生歓迎会と称して、
クラスメートと担任教授と合同コンパに参加しまして、
日本料理店の座敷一部屋を貸し切って、食事をしました。
その時も、自己紹介がてらに、ギターを持参していましたので、
皆の前で、松山千春さんの「木枯らしに抱かれて」を、
ギター弾き語りで披露しました。
(またかよっ!)
それをきっかけに、親しくなったクラスメートの竹村から、
ビートルズをはじめとする洋楽の素晴らしさを教えてくれました。
それまでは、私の中では、松山千春さんと南こうせつさんが、すべてで、
中学生の時代に、ビートルズが好きな友達も一人居ましたが、
私には、まったく興味がなく、
そのオカッパ頭の四人組の人相も区別が出来ず、
下敷きに写るビートルズのメンバーを一人一人指さしながら、
友達に名前を確認して遊んでいたぐらいです。
「これは?!」⇒「ポール!」
「じゃあ、これは?」⇒ 「ジョン!」
「ほんじゃあ、これは?」⇒「ジョージ!」
「あれっ?! これは、ジョンじゃなかったの?!」
「これは、リンゴ!」
「えー?!リンゴ?!ポールじゃなかったっけ?!」
今、思うと、本当にその時は、容姿だけで、ビートルズを批評していて、曲もちゃんと聴かず、我ながら、ほとほと バカでした。
竹村は、ビートルズのレコードをすべて所有していて、カセットテープに、毎日、さまざまなアルバムを録音してくれて、私に聴かせてくれました。
そしたら、聴く曲、聴く曲のほとんどが、
何処かで、いつか聞いたことがある曲ばかりで、
自分で、デタラメな英語を口ずさんで唄っていました。(笑)
ビートルズって、凄いですね!
(今更、よく言うよ!)
それ以来、洋楽ばかり聴くようになり、FMラジオからエアーチェック録音したり、
深夜のFMラジオ番組の「ジェットストリーム」では、曲の完全放送してくれるので、
前もって、FMラジオ番組の週刊誌などを購入し、録音したい曲を狙い定めて、
カセットレコーダーをセットしてました。
語りとか、CMなど、曲以外の音は、絶対に録音したくないので、録音する時は、
真剣そのものでした。
でも、毎日の様に、何十曲も録音していると、手慣れたもので、
「語りが終るタイミング」「CMに行くタイミング」とか、「曲が終るタイミング」
なんかも、感覚的に分かる様になって、キレイに器用に、録音していました。
ただ時には、タイミングを間違えたり、タイミングは、バッチリでも、録音ボタンを
押した瞬間、家の近くを、ゲンチャリバイクが通過して、電波障害が発生して、
「ジャリジャリジャリ」という様なノイズ音が録音されたりして、
苦い思いも何度もありました。
1980年代は、本当に、洋楽の「センカンブリア時代」みたく、良いグループ、
良い曲が、非常に多かったです。
ディスコも流行り出していて、リズムが良い曲もたくさんヒットしていました。
(当時は、お立ち台の様なものは、なかったですけどね)
年末には、FMのラジオ番組で、その年の洋楽ベストヒット集など、三時間ぐらい
完全放送してくれることを、中学生時代の友達から、教えてもらって、
興奮しながら、エアチェック録音したのを覚えています。
ビギン・ザ・ビギン フリオ・イグレシアス
クール・ナイト ポ−ル・デービス
プレッシャー ビリー・ジョエル
スカボロ・フェア サイモント・ガーファンクル
カサブランカ バーティ・ヒギンズ
ジ・アザー・ウーマン レイ・パーカーJr
ラブ・アイランド サード・ワールド
ザット・ガール スティービー・ワンダー
ハートブレイカー ディオンヌ・ワーウィック
ザ・ガール・イズ・マイン マイケル・ジャクソン&ポール・マッカートニー
エボニー・アンド・アイボリー ポール・マッカートニー&スティービー・ワンダー
堕ちた天使 J・ガイルズ・バンド
アブラカタブラ スティーブ・ミラー・バンド
ホールド・オン サンタナ
素直になれなくて シカゴ
夜明けの誓い ゲイリームーア
プライベート・アイズ ホール&オーツ
ロザーナ TOTO
ヒート・オブ・ザ・モーメント エイジア
ガール・ライク・ユー フォリナー
オープン・アームズ ジャーニー
さよならロンリーラブ エアー・サプライ
思い出の中に リトル・リバー・バンド
ドント・トーク・ストレンジャー リック・スプリング・フィールド
ノックは夜中に メン・アット・ワーク
炎のランナー バンゲリス
アイ・オブ・ザ・タイガー サバイバー
星空のエンジェル・クィーン デラ・セダカ
パラダイス フィービー・ケイツ
愛のファンタジー リチャード・サンダーソン
愛と青春の旅立ち ジョー・コッカー&ジェニファー・ウォーンズ
ジャック・アンド・ダイアン ジョン・クーガー
それ行けウィークエンド ラヴァー・ボーイ
アイ・ラブ・ロックンロール ジョーン・ジェット&ブラックハーツ
ステイ・オア・ゴー クラッシュ
バケーション ゴーゴーズ
おしゃべり魔女 トム・トム・クラブ
ミスティ・ハート クォーター・フラッシュ
汚れた英雄のテーマ ローズマリー・バトラー
サンライズ・パーティ ケニー・ロギンス
ハート・アタック オリビア・ニュートン・ジョン
夜に抱かれて ロキシー・ミュージック
ザ・ルック・オブ・ラブ ABC
ドント・ゴー ヤズー
愛の残り火 ヒューマン・リーグ
ナイト・バーズ シャカタク
君の瞳に恋してる ボーイズ・タウン・ギャング
アイ・ラン フロック・オブ・シーガル
リ・オンド ハーブ・アルパート
テイク・ミー カシオペア
アイ・イン・ザ・スカイ アラン・パーソンズ・プロジェクト
ホテル・カルフォルニア イーグルス
はあはぁはぁはぁはぁ・・・・・・
当時のカセットテープに書かれたレーベルを見ながら、記載してみました。
久しぶりに、今、並べて見ても、名曲揃いですね。
もちろん、他にも、もっと たくさんの名曲がありましたが、1982年の年末に
エアチェック録音した曲は、こんな感じです。
エアチェック以外は、レンタルショップで、レコードを借りて、(当時は、CDは無い)
ビルボードにベスト10ランクインされている洋楽アルバムは、
片っ端から、カセットテープに録音して、
翌日、アルバイト先で、流しまくってましたw
カセットテープも、自分で販売しているので、安く割引して購入出来ましたし、
私には、ピッタリのアルバイトでした。
四日市駅のコンコースで販売していたので、
毎日、大勢の老若男女が通行する場所だから、さまざまな人がお客さんとなり、
中学校時代の同級生とか、久しぶりに再会出来たり、
また別の日に、中学校時代の別の同級生と再会して、
昨日に会った同級生の事を教えて上げたり、消息を伝える中継場所にもなって、
楽しかったです。
(現在は、コンコースも改装されて、ワゴンセールは、有りません。)
同じアルバイト先のメンバーにも、良い奴に巡り会えて、
仲良くプライベートでも遊ぶ様になりましたし、
自分の方から、申し上げるのも、なんですが・・・・・
この時代が、一番、モテました。(^u^)
いや、ホントに!(気のせいじゃないの?!(p_-))
私目当てのお客さんがたくさん発生しまして・・・・・・
私の青春時代です!
女性ファンが、入れ替わり立ち替わり、ワゴンセールにやって来て、
カセットテープとかを購入してくれたり、
購入せずに、私との会話を楽しんだりで・・・・
あとで、女房が言うには、
「私も、そのワゴンセールで、カセットテープを20本ぐらい、買ったんやにー!」
とのこと。(女房と結婚する五年前の話らしいです。)
私は、ハッキリと覚えてなくて、女房に怒られました。(T_T)
アルバイト生活は、花が咲き乱れておりましたが、肝心の大学生活は・・・・・
気に入った部活も無く、何処の倶楽部にも所属せず、
女子大生とも話すキッカケも無く、
勉強もせず、いつもテストの時は、山をかけて、徹夜で、丸暗記して、
試験当日、出題用紙を見て、山が外れて、ガッカリ!
白紙で答案すると、確実に単位を落としてしまうので、願を掛け、
昨夜、徹夜して覚えた 今回のテストの答案とまったく関係の無い、論述を、
せっせと書き殴って、答案を提出して、教授から同情点を得て、
なんとか、ギリギリの最低得点で、首の皮一枚で、進級を繋ぎながら、
必修単位だけ、取得していました。
現在、私の息子と真逆です・・・・・
息子は、大学へ入学してからも、勉強はしっかりしていますし、
トーエックの英語も、900万点中、740点獲得するわで、
当時の私の姿は、息子には見せられないです。(T_T)
「トンビが鷹を生む」とは、我家の例え!
またバカな親父(私)の話に戻しますと・・・・・・
私が、大学一年生の時、初めての文化祭で、
軽音学部が、大学の敷地内のキャンパスで、野外コンサートを開催していまして、
そこから、ジャーニーの「セパレイト・ウェイズ」の歌声が聞こえてきて、
「よく、あんな高い声が出せるなあ。」と感心しながら、キャンパスの芝生に
座り込んで、聴き入ってました。
その時に、私に声を掛けてきた同じ大学一年生の青年と、
後にバンドを組むことになります。
その青年は、私の通学カバンから突き出ていたドラムスティックを見て、
「ドラム、やってるの?!」と尋ねてきました。
お話するのが、後になってしまいましたが・・・・・
私が高校一年生の時、まだ両親が離婚する少し前、
ドラムにも、興味をもっていまして、
友達の家で、ギターを弾いたりして遊んでいる時でも、
友達のギター伴奏に合わせて、手や指、ペンやえんぴつなどを
ドラムのスティック代わりにして、床や、壁、あらゆる物をドラムにみたて、
叩いて遊んでいましたw
そして、10畳の部屋を手に入れたこともあったので、本物のドラムが欲しくなり、
お年玉で、中古のドラム三点セットを3万円で、購入しました。
ドラムが届いた日は、嬉しくて嬉しくて、
すぐ部屋にセッティングして、叩きまくりました。(^O^)/
それ以来、しばらくは、ギターのことも忘れて、友達が遊びにくれば、
友達がギターで伴奏とボーカルをしてもらって、私がドラムを叩いて、
アリスの「チャンピオン」など、アップテンポな曲を選曲しては、騒いでました。
それも束の間、両親の離婚と共に、ドラムは、その家に置いて出て行きました。
その後、ドラムと再会出来たのは、
私だけ、父親の元に戻った二年後の高校三年生の時でした。
再会出来たその後も、ストレス発散とばかりに、ドラムを叩きまくっていましたねw
そんなこんなで、大学へ入学してからも、ドラムスティックだけは、通学用カバンに
いつも挿して持ち歩いていました。
ドラムとか、ギターを持ち歩いて、いつも通学なんて出来ないし、
大学へ入学したら、バンドを組みたいと思っていましたので、
いつもドラムスティックをカバンから覗かせていれば、
ドラムを叩けるメンバーを探している学生へ、
「物言わぬアピール」につながると考えていました。
もちろん、私は、ドラム志望ではなく、「ボーカル志望」なんですが・・・・・・
そこは、私なりの戦略があって、まずは、キッカケ作りです。(-。-)y-゜゜゜
ギターより、ドラムを叩くことに、あまり自信がありませんので・・・・ハイ。(@_@;)
それで、先ほどの青年からの声掛けのシーンに話を戻しまして・・・・・・
「ええ、ドラムは、やってますよ・・・・・・」と私。(-。-)y-゜゜゜
それで、その青年は、ピアノ・キーボード担当で、もう一人、友達が横に居て、
その人は、リードギター担当らしく、
ドラム担当が、最近、バンドから離脱したみたいで、
ドラムが出来る人を探しているみたいでした。
三人は、昼食がまだ だったので、軽音楽部のライブ会場を後に、
大学構内にある食堂で食事を済ませて、
ギター青年が、近くに下宿しているとのことで、アパートへ移動しました。
その部屋に入ると、いかにも、「男の部屋」とばかりに、物で足の踏み場も無く、
食べた後の包装紙や容器なども、散らかっていて、
体臭と食べ物が混ざった独特な臭いを放っていました。
布団も、万年床で ひきっぱなしで、「その辺に、座って!」と言われ、
布団の端の方に、とりあえず座りました。
で、座るなり、ギター担当の青年が、ラジカセから音楽を流し、
その曲に合わせて、ギターを弾き始め、
キーボード担当の青年は、バンドのリーダーらしく、バンドの説明をしだしました。
「この曲は、TOTOのグッバイエリノアって曲なんだけど、知ってる?!」
「・・・そう、知らないかぁ。 俺達は、今、TOTOのコピーをしてるんだ。」
「どう?! この曲とか、叩けそう?!」と青年。
「・・・ん〜、どうかなあ、ちょっと分からない・・・練習すれば・・・・」
とモゴモゴと私。
すると、そのピアノ担当の青年が、座りながら、部屋の床を
音楽に合わせて、ドラムを叩く様に、実演してみせた。
♪ドドドドド・・・・・ドッチャーン ドッチャーン ドドドターン ドドドターン♪
そして私も、それにつづいて、床を手で叩いた・・・・・・・
♪ドドドドド・・・・・ドッチャーン ドッチャーン ドドドターン ドドドターン♪
この姿を客観的に見ると、「アフリカ原住民の雨乞いの儀式」の様だと思う。
(笑)
「そうそうそう。 上手い 上手い、出来るじゃん!」と青年。
私は、心の中で・・・・・・
(何だ、これでいいのか、簡単じゃん)と思ったのも束の間。
「でも、実際は、今、手で叩いている このパートは、
バスドラを足でやるんだけどね。」と青年の一言。
「えっーーーー! 手で三連符を叩くのではなく、足でやるのーーーー!」
「絶対、無理〜!」と私。
しかも、ツインバスドラではなく、シングルバスドラらしく、
超人的なテクニックです。 by TOTOドラマー 故 ジェフ・ポーカロ
普通の人が、片足で、シングルバスドラを三連符で叩くと、
すぐに足をつってしまいます。
で、キーボード担当の青年が、少しガッカリしながら・・・・
「・・・そうかぁ・・・無理かぁ・・・」
「普段は、どんな曲を叩いているの?!」と青年。
「・・・いや、普段は、フォークギターで、松山千春さんを・・・」
「ドラムは、ほとんどフィーリングで、叩いているので・・・」と私。
「じゃあ、練習すれば、叩ける様になるよ・・・・」と青年。
(青年は、私に、練習させるつもりみたい・・・・)
この青年も、諦めないタイプ?!(笑)
そして、後日、そのキーボード担当の青年が、
バンドの練習を私に見学するようにススメ、
青年の自宅近くにあるレンタルスタジオへ向かう途中、
ヤマハの楽器店へ立ち寄って、
青年の知り合いの店員へ私を紹介してくれました。
さまざまなギターが展示されている中、松山千春さんが当時愛用していた
「オベーション アダマス」というギターが販売されており、
当時、100万円以上もする高価なギター(現在は、25万円〜50万円)
を羨望の眼差しで眺めていると・・・
「弾いてみますか?!」と店員。
「・・・えっ?! いいんですか?! 買えないですよ・・・」と私。
そして、店内にある防音室へ移動し、その憧れのギターを手にしてみた。
感激!(@_@;)
で、しばらく、ちょこちょこと軽く弾きながら、ギターの音色を確かめていると、
「ちょっと弾き語りしてみてよ!」と青年。
私は、何故か、一瞬、躊躇してしまって、唄い出すタイミングを失ってしまった。
今から思うと、私は、この時点で、「歌手になる器」ではないなと
感じることが出来ます。
また一つ人生という道の分岐点で、「歌手への道」から遠ざかってしまいました。
別に、そのヤマハ楽器店の店員の前で、「唄う事を披露」してたとしても、
オーディションの審査員では無い訳ですから、
「歌手になれた」と言い切ることでは無いですが、チャンスと言うものは、ある時、
突然にやって来て、素早く去っていくものですから、「歌手」に限らず、人前で、
何かを披露する仕事に着く者は、人から無茶ぶりされたとしても、そこで、すぐ披露出来る者か、躊躇する者なのかは、重要な問題の様な気がします。
それは、48歳の私だから、感じることで、27年前の私には、到底、理解出来ず。
特に、当時、ヤマハ主催のミュージシャンの登竜門である
ヤマハポピュラーソングコンテスト 通称「ポップコン」
というオーディションがあって、
このコンテストに出場、グランプリ、優秀曲賞、入賞、特別賞などを受賞し、
デビューした代表的な歌手に、NSP (N.S.P ニュー・サディスティック・ピンク 1973年)、谷山浩子、八神純子(1974年)、渡辺真知子、中島みゆき、因幡晃(1975年)、佐々木幸男(1976年)、世良公則&ツイスト(1977年)、佐野元春、長渕剛、円広志、大友裕子(1978年)、チャゲ&飛鳥、クリスタルキング(1979年)、雅夢(三浦和人)(1980年)、伊藤敏博、アラジン(高原兄)(1981年)、あみん(岡村孝子)(1982年)、TOM★CAT、辛島美登里(1983年)、新居昭乃(1984年)、作曲家に寺嶋民哉などがいる。
いずれも、当時は、大ヒット曲のシンガーソングライターばかりである。
私も、もれなくポップコンに憧れていた人間の一人で、そんな人間が、
青年の「無茶ぶり」とはいえ、そこで、「唄う事」を躊躇った人間が、
そんな大舞台など、立てる訳もなく、
そもそも、スタートラインにさえ立てていないのである。
現在の私は、昔の私をそう思います。
過去にタイムスリップして、その事を、過去の「私」に教えて上げたいぐらいです。
昔の私は、その時、そこまでの思いはなかったですが、
そのヤマハ楽器店を後にして、
青年の自宅に向かう電車の中で、漠然と猛烈に「しまった!」と反省していました。
というのも、青年の自宅に着いて、リビングに通されて、
そこに青年の妹(高校生だと思う)が居て、
青年から私を紹介され、その時も、また「無茶ぶり」が出て、
「弾き語りやってみて!」
でも、今度は、躊躇せず、普通に、その妹の前で、
松山千春さんの「旅立ち」の弾き語りをやりました。
妹は、軽い拍手をしてくれていました・・・・・
さっきは、何故、ヤマハ楽器店で、すぐ弾き語りをしなかったのだろうと、
また悔しさが込み上げてきました。
その後、キーボード担当の青年が、自宅にあるピアノで、
TOTOの「ロザーナ」という曲の弾き語りが始まりました。
ボーカル担当じゃないのに、唄入りで、ピアノを弾いていました。
ピアノの巧さは、よく理解が出来なかったですが、
声は、けっこう高音が出ていた様な気がしました。
一通り「披露ごっこ」が終って、スタジオへ集合する時間となって、
青年の家の近くにあるレンタル スタジオへ移動。
スタジオに行くと、ギター・ボーカル・ベース・ドラム担当のメンバーが既に集まっていて、(えっ?! ドラム担当者が居るじゃん?!)
キーボード担当の青年も含め、メンバー全員が配置につき、
TOTOの「ギフト・ウィズ・ア・ゴールデン・ガン」と、
「グッバイ・エリノア」の二曲つづけて、演奏が始まりました。
演奏を聴いてみて、やはり、ボーカルがまったく駄目なのが分かりました。
洋楽のボーカルは、超人的なキーで唄い上げますから、
まあ、日本人で、唄いこなせる人は、まず居ないと思いますけどね。
演奏の方は、私も、まだレコード(カセットテープ)を聴き込んでないので、
ハッキリと巧さは分かりませんでしたが、ドラムに関しては、私なんかより、
絶対に巧いと感じました。
その様な感想抱いているうちに、演奏が終了して・・・・・・
そしたら、また青年からの「無茶ぶり」が・・・・・・
「ドラム、叩いてくれる?!」
(えっーーーー?! 今度は、ドラムーーーー?!)
「いや〜(照)、何を叩くの?!TOTOの曲って、まだ分からないんだけど・・・」
と私。
「さっきのグッバイ・エリノアで、いいよ! ドラム符は、これっ!」と青年。
「俺、ドラム符、読めないんだけど・・・・」と私。
今度は、ドラム担当の青年が、私に近づいてきて、直接指導が始まりました。
その青年は、私が叩きやすい様に、手抜き奏法を教えてくれて、
足を使って、三連符で、バスドラを「♪ド・ド・ド♪」とやるところを、
二連符で、「♪ド・・ド♪」とする叩き方をススメてくれました。
とりあえず、メンバーと一緒に、合奏してみましたが、
全然、叩けてなく、適当に雰囲気で叩いて、誤魔化しましたw
その後は、スタジオ内で、私がドラム担当と交代して、演奏がまた始まって、
しばらく雑談した後、解散し、私も、帰宅しました。
で、キーボード担当の青年へ、
私と一緒に、帰宅途中、ドラムの件を確認してみたら・・・・
「まあ、練習するのみですね・・・
今のドラマーは、あとがまが見つかる迄なので・・・」と青年。
「練習かぁ。練習したら・・・叩ける様になるかなあ・・・」と私。
「・・・・・・」と青年。
その後、私は、自宅のボロドラムで、練習し、
月一回は、またスタジオにメンバーと集まって、合奏しました。
でも、我流で、練習していても、センスが無いのか、上達せず、
現在のバンドメンバーでのライブを見学した後、
キーボード担当との交流も徐々に無くなり、
私が、ドラマーとしてデビューする日も無く、自然消滅してしまいました。
まあ、目指すは、「歌手」なので、ドラマーじゃないから、また一から出直しです。
ドラム自体は、今でも、好きですけどね。
叩くのは、センスが無いです。
息子も、私の血を受け継いでいるせいか、ドラムが好きで、
高校入学のご褒美に好きな物を買ってやると話したら、
「電子ドラム」がほしいとのことで、買い与えました。
でも、高校入学する迄の春休みの間だけは、頻繁にドラムを叩いてましたが、
大学受験に向けての勉強とかもあり、たまにしか叩かなくり、
その間、ほとんどホコリをかぶっている状態で、私と同じく、上達しません。
現在、息子は、大学一年生ですが、
最近、また たまにチョコチョコと叩いています。
4歳の頃から、中学校一年生迄、ピアノも習わせましたが、今では、弾けた曲も、弾き方も忘れ、中学校一年生から、私のお古のギターを与え、
私の方で、弾き方も教えていましたが、未だに、弾ける曲もなく、
チューニングすら出来ないでいます。
音楽は、大好きみたいですけど、今は、聴く専門と化しています。
息子は、女房に似て、飽き症ですが、ゲームだけは飽きずに、よく遊んでいます。
将来は、ゲームプランナーを夢みて、日々、彼は、成長しております。
父親は、歌手になれなかったですが・・・・・・
息子が、ゲームプランナーになったら、ゲームのテーマソングでも、
唄わせてもらおうと思っています・・・・・・(はい。冗談です。<(_ _)>)
でも、息子の夢が叶えば、本当に嬉しく思います。
「少年よ!大志を抱け!」
「壮年よ!大した老いだけ!」
はい。
じゃあ、また「少年」の「未来の話」から、「壮年」の「過去の話」に戻ります。
そして、バンド活動から遠ざかって、しばらくした後・・・・・・
夜、見ず知らずの男二人組が、自宅へ私宛に訪問が・・・・・
父親から、お客さんが来訪と伝えられ、二階の部屋から、玄関先へ降りていくと、
二人が居て、長身の男が、
「ドラム、やってるんだってね?!」
「えぇ・・・まあ、でも、どうしてドラムをやっていることを?!」
「って、いうか、お宅らは、何方ですか?!」と私。
そしたら、同じ中学校卒業の二つ上の先輩で、近所に住んでいる人で、
暗がりだったので、ちょっと分かりずらかったが、よく見れば、
何処かで、見たことがある顔だった。
で、私が、ドラムをやっていることを知っていた件は、私の父親の妹の夫が、
近所で、楽器店兼ギター教室を開業していて、
その男がギターの弦を購入した時に、
店員(叔母)に、「近くで、ドラムをやっている人、知りませんか?!」って、
尋ねたらしく、その時、私を紹介されたとのことでした。
とりあえず、以前のキーボード担当の青年の時の様な関係になっても、
遠回りするのも嫌なので・・・・・・
今回は、ハッキリと、「俺は、ボーカルをやりたいんだけど・・・・・」と私。
すると、その男は、しばらく考えて、「・・・声は、どれ位までの高さが出せる?!」
「まあ・・・基本的には、高い音の(ソ)で、調子が良いと、(ラ)も出ます!」と私。
「じゃあ、俺と同じぐらいやなぁ・・・俺が、今、ボーカルやっていて・・・・」と男。
とにかく、今日は、夜も遅いので、
明日、休みだから、私の家にもう一度来てもらって、
その時、「腕前の披露」をしてから、検討することになりました。
そして、翌日・・・・・・自宅にて。
まずは、私から、ドラム演奏の披露・・・・・・といっても、他の楽器と合奏は無し。
「ん〜・・・・・」と男。
そしたら、その男と交代して、ドラム演奏の披露。
「ん〜・・・・・・」と私。(ごく普通の巧さ)
次は、私が、ギターの弾き語りの披露かと思いきや・・・・・・
「今夜、バンドの練習があるので、おまえも来い!メンバーを紹介するわ!」と男。
急遽、その場は、解散して、夜、自宅迄、迎えに来てくれることになった。
そして、その夜・・・・・・
迎えの車に乗り込み、走って、10分ぐらいの町内にある「レンタル スタジオ」へ。
でも、到着して見てみると、「レンタル スタジオ」というよりは、
「ただの木造古民家」(?)
男が言うには、知り合いから、月ぎめ5,000円で借りている「倉庫」らしい。
その「倉庫」に入ってみると、8畳ぐらいの部屋に、
ドラム・キーボード・エレキギター2本・4チャンネルミキサーが設置されていて、
他、「倉庫」に最初から置いてあった物(不明物)が、
楽器を囲む様に周りに散乱していて、そこに4人の人間が・・・・・・凄く 狭いっ!
メンバーは、ボーカル担当の男と、ギターとコーラス担当の男、
そして、ボーカル担当の男と友人の妹で、キーボード担当の女(短大生)
ボーカル担当の男が、簡単にメンバー紹介をして、
その時、私は、既に、ドラム担当として、メンバーに紹介されていたが・・・・?!
そして、紹介が一通り終わった後、
ボーカル担当の男が作詞作曲した曲を披露することになって、
メンバーは、狭い部屋の中で、定位置について・・・・・
ドラムとベースのパートは、
今日のところは、ミキサーに録音されている音源を流すということで、
演奏が始まりました。
演奏が終わった感想は・・・・・・
(やはり、ボーカルが・・・・良くないし、ギターも・・・・・・)
オリジナル曲自体も、あまりインパクトが無く、良い印象がなかった。
彼ら自身は、演奏が終了した後、「満足気な顔」をしてたけど・・・・・・
そして、再度、私がボーカルをやらせて欲しいと申し出たところ、
メンバーの前で、弾き語りを披露することになり、
毎度、お馴染みの松山千春さんの「旅立ち」を一曲・・・・
演奏が終り、ボーカル担当リーダーが、「どうやった?!」とメンバーへ。
「・・・ん〜・・・」とメンバー。
私の唄の評価は、駄目みたいでした(T_T)
(私自身は、リーダーよりは、イケてると思っているんだけどね。未だに。)
それで、私が担当の基本は、ドラムで、私が作ったオリジナル曲が出来たら、
その曲をメンバーに披露して、合格となれば、その曲に限ってだけ、
ボーカルをさせてくれることになって、
とりあえずは、リーダーのオリジナル曲を録音したテープを渡されて、
そのドラムの練習をする様、指示されました(T_T)
それと、ベース担当がメンバーにいないので、探しているとのことだったので、
私が高校時代、文化祭で、別の有志バンドで、
ベースを弾いていた男を知っていたので、
早速、連絡をしてみて、とりあえず、
このバンド(バンド名 エボニーアイズ)の練習日に参加してから、
判断するという返答を得た。
そして、その練習日・・・・
ベースを持参して、その男が登場。
私達がオリジナル曲を演奏しているところへ、アドリブでベースが参加。
やはり、ベースが入るだけで、「音の厚みと深み」が増した感覚で、
いつもの曲ではなく、別の良い曲の様な感じがしました。
まあ、ベースの演奏が巧いという要素が大きい訳ですけどね。
初聴で、アドリブ参加出来ること自体、流石です。
そして、一通り、我々、エボニーアイズの演奏が終り、ベーシストに、
率直な意見を確認してみると・・・・・・
まったくのド素人の演奏で、評価の値無しとのことで、撃沈!!!
また明日からは、メンバーにベースが欠けたまま、前進することに・・・・・・
それ以降、進展することもなく、練習しては、雑談と、腹が減っては、夜食の為、
近くの「道産娘 ラーメン」店へと、ウダウダとした活動が続いていたので、
私の方から、ボーカル担当のリーダーに、「メンバーから抜けたい」と申し出た。
結局、申し出は、認められず、いがみ合って、別れ、
それ以来、私が練習に参加せず、
リーダーからも、音沙汰が無くなって、事実上、脱退。
バンドを維持継続させていくとこは、かなり難しいものですね。
ちっちゃなグループでも、人間同志の集まりには、
必ず人間関係のモツレが発生します。
かなり爆発的に人気のあったプロのバンドでさえ、長寿は少なく、
短命が多いですよね。
人間関係のモツレ。
意見の相違、金銭的な問題、ボーカルのソロデビュー、
メンバーの不祥事などなど。
まあ、私の場合は、デビュー以前の段階で、スタートラインにも立ってませんが・・・
そんなこんなで、小学生の時代に「どんぐり音楽会」の予選に落ちて、
大学生時代に、「タレント養成専門学校」のオーディションを受けた以外、
「歌手になる」為に、私がしてきた事は、行き当たりばったりで、計画性も無く、
寄り道と廻り道を歩いていただけだった様な気がします。
「本当に、絶対に、なりたかったものだったのか?!」
「ただ なれれば、良いなという程度だったのでは・・・?!」
「何故、もっと貪欲に、オーディションに応募しなかったのか?!」
「最初から、バンドメンバーなど求めず、一人で弾き語りをしなかったのか?!」
「そもそも、歌手を目指すのに、大学へ進学する必要があったのか?!」
「法学部なので、早く見切りをつけて、法曹界へ進路変更しておけば・・・」
などなど。
後悔先に立たずとは、よく言ったもので・・・・後悔だらけです。
自分の息子へは、
「後悔しない様に、自分が信じた道を突き進め!」と言ったりするが、
突き進み切れずに、後悔することもあるんだなあと、痛感しています。
他には、「因果応報」「した事は、返る」と、
過去の経験を踏まえて、自戒しております。
そうこうしている内に、大学三年生となり、
学生の中には、早くから就職活動している者もいて、
私も改めて、考えさせられる時期にきていました。
私の場合は、特に、大学生になってから、
試験直前にならないと勉強してこなかったので、いつも成績はギリギリで、
就職活動よりも、無事に、卒業出来るか、どうかも、問題でした。
私に、洋楽の良さを教えてくれた同級生の竹村も、私と同じ様な状況で、
ダラダラと大学生活を送っていて、
何故か、二人には、緊迫感や焦りがなかった・・・・・・
当時、大学生には、何処で個人情報を調べたのか分かりませんが、
「リクルート」などから、辞書並の分厚い求人誌が、次から次へと何冊も、
自宅へ勝手に郵送されてきていて、
売り手市場で、企業を選ぶには、選り取り見取りといった状況が、
「変な安心感」を生んでいたのでしょう。
その頃、自宅へお昼時に、定期的に、
何故だか、「トヨタビスタ」の部長さんがよく訪問していて、
「宜しかったら、お食事しませんか?!」と誘って来ます。
所謂、青田刈りですね。
私は、「トヨタビスタ」へ就職する気が無かったですが、
食事をどの道するんであれば、
「タダ」が良いですし、最悪、大学卒業するまでに、
何も就職したい企業が見つからなかった場合の「キープ企業」になるし、
万が一就職したとしたら、社員割引とかで、車を割安で入手出来ると思い、
お互い利害関係を継続させながら、時折、食事へ行ってました。
そんな「保険」もあって、熱心な就職活動に、踏み切れなかったのでしょうね。
いざとなれば、何処でも、就職出来ると!(考えが、甘い!)
今の就職氷河期時代から想像すると、とても、考えられない時代でした。
なんてったって、今の大卒就職率が、60%以下ですから・・・・・・
何でも、「・・・過ぎたるものは、及ばざるがごとし!」ですね。
また、私の場合、バイトが充実していたのも、
就職活動にブレーキを掛ける要因の一つでした。
そのままアルバイトから、正社員として就職するという「もう一つの保険」
実際に、そこのバイト先には、先輩社員で、
元アルバイトの人が、何人か居ましたから・・・・・・
そんな不完全燃焼の大学生活を過ごしていたある日・・・・・
父親の知り合いで、元町長を経験したことがある人が、
「赤旗新聞 日曜版」の集金に、毎月、やってきていて、
このおじさんは、私が、3歳頃からの持病である「気管支喘息(四日市喘息)」の「公害認定患者」の申請に尽力して戴いた人物で、
さらに、私が中学校三年生の時に、「家庭教師」を推薦してくれた人物で、
私の家族とは、古いつきあいがありました。
後に、私は、このおじさんが、「日本共産党党員」であることを知りました。
そんな おじさんが、玄関先で、父親に頼みごとを話していて、その頼みごとは、私に関する事だったみたいで、私も、父親から呼び出され、玄関先へ。
そして、おじさんから、直接、頼み事を訊いてみると・・・・・
おじさんの娘の家庭教師をしてほしいとのことでした。
娘は、中学校三年生で、まったく勉強しないので、困っているとのこと。
(私に教えてくれた家庭教師の先生がいるのでは・・・・?!
何故、私に頼むのだろう?!)
「別に、私で良ければ・・・・構いませんけど・・・・・」と私。
そしたら、今度、自己紹介がてら、自宅へ連れてくるとのことで、
その後、おじさんは、帰宅しました。
そして、一週間後、母親とその娘が、我が家へ訪れました。
長めのスカートで、学生服を着ていて、
小柄で、大人しそうに、下を向いていました。
その母親から、娘が勉強していない様子や、今後の家庭教師の曜日、場所など、いろいろと話され相談され、お願いされた。
その間、娘と目が合ったのは、二回ぐらいで、
ほとんど母親の横で、下を向いたまま、たまに頷くだけであった。
それで、話し合いのオサライとして、
毎週火曜日と木曜日、17:00〜19:00の二時間、
我家にて、家庭教師をするということを伝えて、
来週、学校が終わって、自宅に来る時迄に、
教えてもらいたい分からないところを把握しておく様に、宿題を与えると、
また目を合わせることなく、頷きながら、「あっ・・・はい。」と小さな声で返事をした。
そして、家庭教師初日・・・・・・
17時少し前に、彼女が自宅に訪れた。
礼儀正しく、きちんと挨拶をして、私の部屋へ。
早速、先日与えた宿題の事を確認してみたが・・・・・・
「・・・ほとんど、全部 分からない・・・特に数学・・・・」と彼女。
(つまり、「分からないところが、分からない」 あちゃ〜! 重症だぁ。)
とりあえず、今日、習ったところの数学の復習から、始めると提案した。
教科書を開き、習ったところを確認すると、連立方程式で、問題をやらせてみたが、
待てど暮らせど、鉛筆を持つ手が、ピクリとも動かず、いっこうに進まない状態で、一から教えた方が良いと思い、次回の家庭教師日迄に、
中一と中二の数学の教科書の巻末に記載されている問題集を順番に解いてみて、分からないところを教えていくと提案した。
それと、国語に関しては、「ポケット当用漢字辞典」に記載されている漢字を毎日、一ページづつ覚えてもらって、それを家庭教師日の時に、テストをすると伝えた。
他の教科についても、暗記が重要となるので、
「今日習ったことは、確実に今日中に、覚える」様に、きっちりと伝えた。
そして、「授業で分からなかったところや、勉強していて分からなかったこと」は、
必ず、家庭教師日に訊く様に、再度、口すっぱく、伝えた。
初日は、今日の授業の復習を少し行っただけで、ろくに教えることも出来ず、
これからの家庭教師の方針みたいなことを
お互いに再確認する日になってしまった。
すると、帰りがけに、「ねぇ! ねぇ! 先生!」と彼女から呼びかけがあり・・・・・
ようやく、本日の授業で、分からなかったことを思い出しての質問かと思いきや・・・
「先生の親戚に、A君っていたでしょ?! 従弟なの?! どんな子だった?!」と
彼女。
勉強の質問かと、思いきや、「私の従弟について」とは・・・・・?!
従弟のAは、私の父親の兄貴の二男坊で、
彼女が言うには、同級生だったらしい。
「・・・だった」とは、当時、三ヶ月前ぐらいに、交通事故で亡くなったからである。
従弟のAは、地元の暴走族「ハリマオ」に所属していたらしく、バイクで、
「無免二尻(ムメンニケツ 無免許運転で、二人乗り)」しながら、
県道を蛇行運転して、見通しの悪いカーブのところで、
センターラインをオーバーして暴走、
対向車と正面衝突して、亡くなったのです。
私とは、従弟関係にありますが、年齢も六つ下で、以前から会う機会も少なく、
話したことも、あまりなかったので、彼女からの質問には、納得が行く様、
期待に応えることが出来なかった。
その後、何度か、家庭教師日を経過して、
彼女もある程度、勉強する習慣がついてきたのか、
ちゃんと宿題をしてくる様になって、
毎回、分からないところの質問もする様になっていた。
そこまでは、良いのだが、ただ・・・・・・
いつも、一回、二時間の家庭教師時間で、
一時間後に、十分間の休憩を入れるが、
その時、必ずと言っていいほど、「従弟のA」についての質問をしてきます。
「先生って、A君に似てるって言われたことない?! ・・・似てるよ、やっぱり・・・」
「A君のお父さんと、先生のお父さんって、凄く似てるし・・・・」と彼女。
確かに、私の父と、父の兄は、私も似ていると感じているが、
私は、母親に似ていると言われた事が多いので、
従弟のA君と似ていると思ってないのであるが・・・・・・
とにかく、どちらに似てようが、似てまいが、構わないのであるが・・・・・
彼女は、きっとその同級生のA君に憧れていて、A君が亡くなってしまってから、
A君の事を自分が好きになっていたと気付き始め・・・・・・
そして、そのA君に似ていると思い込んでいる この私に幻影をみていて、
私に好意を持っているのではないかと、感じ始めていた・・・・・
そう考えると、おじさんが、私へ家庭教師をお願いしに来た事も、つながる・・・・・・
彼女が、勉強の事で、家族と話し合いをした時に、
私が中学校三年生の時に家庭教師をして戴いた先生の話も出ていたはずであるが、その先生を彼女は断って、逆に私を指名したのではないのかと・・・・・・
少しでも、A君と血が繋がっている私を!
あくまでも、自惚れでは無く、私の推測に過ぎないが・・・・・・
彼女は、暴走族の一員であったA君に憧れていて、そして好きになって、
自分も、ちょっと不良っぽく振舞っている・・・・
でも、「根」は、良い子だから、せいぜい長めのスカートを履くぐらいで、髪も、黒髪のままで、染めてもなく、目も、澄んでいてキレイであった。
ただ問題は・・・・・これからの私と彼女との関係が・・・・・・
というのも、自分で推測した、
「彼女は、A君の幻影である俺の事を好きなのかも・・・?!」と
意識してしまって・・・・
今までみたいに、「普通」に「女」を意識せずに、
「勉強」を教えずらくなってしまったからだ。
数学の計算式とかを、教えながら、ノートに書き留めていても・・・・・
彼女の視線が気になってしまう・・・・
ちゃんとノートの方を見る様に伝えても・・・・
「はい・・・」と言いながら、ノートの方を見ず・・・私を見つめてくる・・・・
家庭教師日を重ねるごとに、
彼女は、益々、「勉強するムード」じゃなくなってきていて・・・
私も、何だか、「教える気が張らなく」なってきていて・・・・・
段々と二人の意識が、
お互い、「家庭教師日」は、「二人が逢える日」みたいになって、
「逢う」ことが待ち遠しくなり、勉強する時間も徐々に、少なくなり、
ほとんどが、「休憩時間」となり、バカ言ったり、やったりして・・・・・・
やがて、「家庭教師」を始めてから、三ヶ月を経過して、夏休みとなり・・・・・
バイトも、「家庭教師日」も、何の予定も無い日に、自宅でくつろいでいた時、
「♪ピンポーン♪」と呼鈴が鳴ったので、2階の部屋から玄関へ降りて、
ドアを開けると、そこに、彼女が立っていた・・・・・・
「先生! オッス! 何しとった?!」と明るく、彼女。
「えっ?! 何って?! おまえ、今日、学校は・・・あっ休みかっ!・・・」
「今日は、(家庭教師の)曜日と、違うよ?!・・・・・・」と、
何故か、ドギマギする私。
「え〜〜?!家庭教師の日じゃないと、何で、イカンの?!お邪魔しまーすっ!」
と質問しときながら、応えも訊かず、彼女は、私の横を通り過ぎ、
「家庭教師日」のいつもの様に、軽い足取りで、二階の私の部屋へ・・・・・・タタタタ
私も、その後を追う様に、二階へ。
部屋へ入った時、二人は、目が合って、彼女は、「笑顔で」
私は、何か、恥ずかしくなって、「目をそらし」ながら・・・・・
「おまえ、もう昼飯、食ったんかぁ?」と。
「家庭教師日」は、当然、学校帰りに立ち寄るので、「学生服」であったが・・・・・
今は、「私服」
それも、大人っぽい服に、薄っすらと化粧まで!
上は、白のブラウスの様で、黒のオーバーオールの様なスカート
(服の名称は、間違っているかも・・・・)を履いていた。
目が合った瞬間、
生徒と言うより「一人の女性」として、「可愛い」と思ってしまった・・・・
有名人でいうと、レベッカのノッコと中山美穂を足して、二で割った感じに見えた。
「食ってないよ!・・・・・何か、先生、照れてない?!」
自分の服装を指さしながら、「・・・・あっこれっ?! 似合うやろ〜、可愛いやろ〜」
と無邪気に言ってのけ、
よく その服装が見える様に、彼女は、クルッとターンして微笑んでみせた。
特に、その「ファッション ショー」には、関心が無いふりをして、取り合わず・・・・・
「飯、食ってないなら、何か、食いに行くぞ!」と言って、
とりあえず、外へ連れ出した。
いざ、外食へと出てみたものの、何か私の中で、気恥かしさがありました・・・・・
見た目には、私は、実年齢より若く見られることが多く、
彼女の場合は、今回、服装といい、化粧もしていたこともあって、
実年齢より、老けて見えて、6つの年齢差を感じさせないと思いましたが・・・・・・
私自身の心の中には、
あくまでも、「家庭教師と生徒」という関係の意識が残っていましたから、
勉強以外で、「逢っている」こと、そのものに対する、「後ろめたさ」が
そう 思わせていたのでしょう。
それと、「私や彼女を知っている」誰かに、見られたら・・・・・
という気持ちもありました。
車を走らせながら、いろいろと考えている様子の私を、見透かしてか、
助手席に座っている彼女が・・・・・・
「先生! 私、そんなにお腹空いてないし、人ごみが嫌いなんで、
マックのドライブスル−に行かへん?!」とリクエストしてきました。
それで、自宅から出来るだけ遠くにある マクドナルドのドライブスルーに行き、
飲み物とポテトとバーガーのセットを二つ注文し、
人目を気にせず、ゆっくり 食べられる 小さな川に掛る橋の下に駐車して、
車内で食べながら、いろいろなことを話ました。
それからというもの、彼女は、私のバイトや大学などのスケジュールを訊き、
予定が入ってない日は、すべて、頻繁に私の自宅まで遊びに来ては、
マクドナルドや、ケンタッキーなど、
ドライブスルーがあるファストフード店へ出掛けるのが日課になっていました。
バーガーを食べる場所も、最初は、「橋の下」が多かったですが、
たまに、海の見える堤防とか、
とにかく、「人目が無く駐車スペースがある場所」を見つけては、
そこで、食べたり、話したりして・・・・・・
また映画館なんかも、人目につき難いので、
おもしろそうな映画が上映されていたら、同じ席で、同じ映画を何回も観て、
日が暮れる迄、楽しんでいました。
(当時の映画館は、一回毎に、観客の総入れ替え制度は無く、
何回でも、自由に観覧可能)
二人のささやかな楽しいデートでした。
そうやって、頻繁にデートを重ねていましたので、飲食代や、夏、外で長時間、
カーエアコンをつけながら、エンジンを切らずにアイドリング状態でいましたから、
ガソリン代なども多くかかり、「金欠病」にならない程度に、デートの回数を減らし、バイトの数を増やしたりしました。
すると、今度は、バイト先迄、彼女が私に会いに来る様になりました。
カセットテープが陳列されているワゴン越しに、
「客に扮する彼女」と「店員の私」が、飲食無しで、
「ただ話す」だけのデートもしたりしました。
そして、8月、お盆の時期、
彼女の両親達と二女と三女の娘達とで、彼女(長女)だけ残して
(彼女が断った)、母親の実家に帰省することになって・・・・・・
彼女から、「花火大会」の観覧に誘われました。
綺麗な花火の数々を見た後・・・・・二人は、キスしました。
花火大会が終焉し、彼女を自宅へ送り届け、結ばれました。
その後、お互い夏休みが終り、通常の日課に戻り・・・・・・
ただ 相変わらず 「家庭教師日」の勉強にも、身が入らず・・・・・
当然ならが、彼女も勉強に専念していませんので、成績も低迷・・・・・
そんな怠惰な日を送っていましたが、
来年、せめて、彼女が高校受験に合格出来る様に!と、
愛知県にある熱田神宮へ初詣を兼ねて、
神頼みに、彼女と二人で大晦日に行きました。
でも、「神の御加護」も無く、遭えなく 不合格。
(経済的な理由で、私立高校は、受験していない。)
私は、すごく責任を感じて落ち込んでいましたが、
彼女も、彼女の家族も、至って明るく元気だったので、救われました。
彼女の母親は、隣町で、「お好み焼き屋」を営んでいて、家庭教師を頼む前から、もし受験に失敗したら、店を娘に手伝ってもらおうと考えていて、
いずれは、店を引き継いでもらうつもりだったらしい。
それと、彼女から、訊いたのか、女の第六感なのか、母親は、「私達の関係」に、気付いている様で(?)、私の顔を見ると、「意味深な笑み」を浮かべるのである。
「イヤラシイ笑み」ではなく、「微笑ましい」歓迎の笑みの様な印象だった。
彼女が中学を卒業して以来、「家庭教師の日課」が無くなり、
「教師と生徒」という関係から、「男と女」という関係が深まっていった。
ただ 私も、学生の身で、当然、アルバイト以外の定職も、収入も無く、
すぐに彼女を幸せにして上げることも出来ず、いずれ、私が社会人となって、
しっかりとした収入を得られる様になったら、
「結婚しよう」と漠然とした考えをもっていたが・・・・・・
世間体ということも気にして、デートも相変わらず、
「人目につかない」、「経済的な」デートを繰り返していて、
夏休みといった長期的な休みが無い期間は、
なかなか逢える機会が少なくなるので、
その場合は、深夜、皆が寝静まったであろう時刻に、私は、彼女の元へ
「夜這い」するのであった。
彼女に、事前に計画を伝え、決めた時刻に、彼女の部屋の窓をノックして、
その窓から、部屋へ侵入するのである。
今の私が、当時の私を形容すると、「恋は、盲目!」「蟻が群がるほど、甘〜い!」
そんな日々を続けていると、あっ!と言う間に時が過ぎ、私は、大学四年の冬を迎えていた。
友人達は、皆、それぞれ企業から内定を貰っていて、
洋楽の良さを教えてくれた
あの 竹村も例外では無かった・・・・・・
竹村は、リクルートから送られて来る求人誌の中から、企業を選んだらしく、
各企業のユニホーム(作業服・制服)などを製造販売している会社で、
その営業職の内定をもらったらしい。
私は、というと、就職活動するぐらいの時間があれば、
バイトして稼ぐか、彼女と逢っていたいというバカ者だったので、
先に話した「トヨタビスタ」の部長さんに、食事の時、
「内々定」の軽い返事をしていた。
竹村は、私と一緒に仕事も出来ればと考えていたらしく、
同じ会社へ面接しに行く様に、私へすすめてきた。
私は、「歌手になる夢」を潜在的に諦めてしまってから、
自分が進むべき方向性を見失ってしまい、彼女と出逢い、
すっかり「羅針盤」が狂ってしまい、客観的な判断が出来ず、迷っていた。
親父からも、時期的に心配されて、
「トヨタビスタ」で営業するかもしれないと伝えたところ、
大学生だから、中部電力鰍フ様な大手へ行ってくれるものと思っていたみたいで、ガッカリした様子で、
「おまえの性格だと、営業職よりは、内勤がええのと違うかっ?!」
と歓迎していなかった。
親父は、高卒で、今まで、一人で、
重機や、クレーンを運転して働くサラリーマンで、協調性が無く、人に媚びたり、
お世辞が言えない性格で、私の性格もよく似ていることを知っているので、
忠告してくれたのだと思う。
やがて、ろくな就職活動をしないまま、年が明け、卒業間近の2月になり・・・・・・
いろいろと将来のことなど、自分なりに考えてみたが、「歌手になる」こと以上に、
自分自身を熱く燃やし突き動かしてくれるものを
何も見つけることが出来なかったし、
もう思考することも、面倒になり、親父が嫌がっていた「トヨタビスタ」を断り、
竹村がススメテくれていた同じ会社へ、面接の約束を取り付けて、
採用となったので、そこに就職することになりました。
ほんと、適当に選んだ就職先だったが、その会社の業績が好調みたいで、
ちょうど大卒の人員を増強しているところだった様で、
よっぽど変人で無い限り採用している感じで、助かった。
初出勤は、3月21日で、給料締め日の翌日からとなって、
その一週間前に、新入社員歓迎会と称して、社長への「顔見せ会」が、
名古屋市内にある日本料理店に夜、参加することになって、
その年の新卒社員4名(私も含む)と、社長と経理部長、
総勢6名だけの祝賀会だった。
(全社員数は、50人ぐらい いたと思うが・・・・・・)
新卒メンバーは、私と竹村と、中京大学卒の山本と鈴木という人物だった。
山本と鈴木も、私と竹村と同じ様に、中京大学での友達同士で、
山本は、兵庫県出身で、大学へ入学と同時に、名古屋市内の下宿通いみたいで、鈴木は、三重県の鈴鹿市内に在住で、
自宅から、大学へ通っていたみたいだった。
酒の席ではありましたが、目の前に、社長と経理部長が同席しているので、
採用が決定しているものの、二次面接されているみたいで、
なかなか酔えなかったですし、料理も、本当は、美味しいのでしょうが、
味わう余裕もなかったです。
一通り、各自、改めて自己紹介をして、
その後、社長から、我々新入社員への心構え的な訓示を話されて、
最後に、「不明点・希望・要望等」の質問を促されました。
皆は、「特にありません。」と応えていましたが・・・・・・
私は、面接時に、職種について、
配属先の確認をしていなかったことを思い出して、
その事を、社長に訊ねてみました。
「逆に、君は、何処か、希望する職種があるのかねぇ?!」と社長。
「はい。もし宜しければ、私は、営業が苦手なので、内勤を希望します・・・」と私。
すると、社長は、経理部長の方を見て、
「・・・・どうだね?! 部長の方で、鍛えてやって上げられるか?!」と社長。
という訳で、私は、その場で、総務部経理課に配属が決定。
他の竹村、山本、鈴木の三人は、当初の予定通り、営業部に配属。
そして、一週間後の初出勤日。
我々四人は、それぞれ配属先が決まっていたが、
新入社員の研修期間ということで、
出勤初日から、三ヶ月間は、全員で、「受渡業務」をすることになっていた。
「受渡業務」とは・・・・・・・?!
この会社は、企業ユニホーム(作業服・制服)の製造販売会社で、
製造されて製品となった さまざまな種類のユニホームを注文された取引会社へ、運送会社を経由して、輸送されていく訳であるが、
その製品を指定された個数種類別に梱包して、指定された運送会社
(佐川急便や福山通運)などへ「受け渡す」「業務(仕事)」を、そう呼んでいた。
早い話が、肉体労働で、毎日が かなり しんどかったです。
大量のダンボールに、
一箱、一箱、注文された商品を個数種別など間違えない様に、
詰め込んで、運送業者が来社したら、そのダンボールを手渡しで、引き渡す作業。
最初の一週間ぐらいは、慣れない作業なので、筋肉痛になりました。
肉体労働と、満員電車での通勤時間が往復約三時間かかり、
仕事から帰ると、ヘトヘトのクタクタでした。
そんなことで、彼女への「夜這い行動」の回数が減り、土日祝日が会社の定休日だったこともあり、休日の前日の深夜などだけになりました。
その頃、親父は、30年ぶりの高校時代の同窓会で、
出席していた当時のクラスメートの「女子」であった未亡人と
意気投合したみたいで、最近、お付き合いしているらしく、
仕事が終ると、その「おばさん」を迎えに行き、自宅へ連れて来ては、
楽しく過ごしていて・・・
そのことに関しては、男女のことなんで、
親であろうと、私は、気にしていなかったのですが、
最近、その おばさんを自宅へ連れてくる様になってから、
親父は、早く寝なくなり、
私が「夜這いするタイミング」の時間が、徐々に遅くなり・・・・・・
あまりにも出発時間が遅くなると、私の方が疲れるので、
親父が、まだ寝ていない早い時間帯に、
「友達の家へ遊びに行くテイで」出掛ける様に、変更してから、
一か月を経過した頃・・・・・
頻繁に私が、夜出掛けている事を、親父が、何か様子が「変」だと思ったのか、
ある夜、私に問い正した。
私は、正直に、「彼女」の元へ逢いに行っていることを伝えたら、
世間体を気にしてか、問題になることを恐れてか、感情的に声を荒げて、
「もう二度と、会いに行くな!」と言われ、会いに行きたいのなら、この家から、
「出て行け!」と、最後通告されてしまった。
私は、その夜、彼女の部屋へは行かず、
何故か、海の見える埠頭へと車を走らせた。
車を飛ばしている間も、悔しさと怒りが混ざりあった複雑な感情の中、
何故か、涙が込み上げてきて、悲しくなった。
そして、埠頭の先端に到着、車を止めて、さまざまな事を考えていると、
遣る瀬無くなって、一瞬、
「このまま 車ごと 海に 突っ込んで 死んでしまったら・・・どうなるんだろう?!」
と変な気持になっていた。
それから、どれ位の時間を経過したのか、長い時間、ボンヤリながら、決断をした。
「とりあえず、あの家を出よう!」と。
一旦、帰宅し、翌日、会社が休みの日に、当面の生活が出来る様にと、
衣服・洗面用具・銀行の通帳とカード・毛布などの荷物をまとめ、車に詰め込み、家を飛び出し、
彼女の元へ。
彼女に事情を説明し、二人で、アパートを探す事にした。
通勤が便利な近鉄沿線で、家賃が安く、駐車場一台完備のところが狙いだった。
ただ すぐに ピッタリの物件が見つかる訳もなく、
「あっ!」と言う間に、連休が終り、
明日から、また仕事が始まる。
彼女の家へ泊まる訳にもいかないので、彼女を家に送り届け、
私は、人目の付かない河川敷の堤防の上に車を留め、
リクライニングシートを倒して、寝る事にした。
つまり、六回目の引越(?!) 「路上生活の始まり」である。
昨夜、寝る時に、車のダッシュボードの上へ、セットしておいた「目覚まし」が
やかましく 車内に鳴り響いて、起きた。
一瞬、昨夜は、車内で、寝てた事も忘れて、「ここは、何処だ!」状態だった。
状況を思い出し、車から降りて、大きく背伸びをして、近くの草むらで、小便をして、車内に戻り、歯を磨いて、昨夜の内に買っておいた 「ミネラルウォーター」で、
口を濯いだ。
・・・・・・ホームレスみたい・・・・・・っていうか、ホームレス!(T_T)
そして、スーツに着替え、いざ 出勤!
いつも 通勤の際、利用している駅の近くに、
「路上駐車」出来そうな場所があることを知っていたので、そこに駐車して、
そこから、徒歩で5分、駅に向かった。
駅のホームには、電車待ちする乗客のいつもの顔ぶれ・・・・・いつもの風景。
私だけが、自宅からの出勤では無く、いつも通りでは無かった・・・・・・
私は、社内でも、「何食わぬ顔をして」、いつもの様に、
研修中の「肉体労働」をして、18時の定時に、社を出た。
そして、会社の最寄り駅の地下鉄入口付近に、「吉野家」があるので、
「牛丼 並盛 一杯」を食べ、食べ終われば、すぐ 地下鉄に乗って、
名古屋駅で下車、近鉄に乗り換え、自宅の最寄り駅で、下車し、
車の止めてある駐車場へ。
そして、町にある 「銭湯」へ 一週間に一回 入浴した。
下着や、ワイシャツなどの洗濯も、一週間に一回 土曜日の会社が休みの日に、
コインランドリーで、乾燥も含め利用した。
そして、毎晩、彼女の元へ「夜這い」
そんな 味気ない 虚しい 「路上生活」が、
一か月以上続いた ある 土曜日の休日。
最近の休日の日課となっていた 「アパート探し」が、終結する日となった。
「近鉄沿線で、家賃が安く、駐車場一台完備」のアパートが見つかったのだ。
外見は、かなりの築年数で、木造長屋のボッロボロ アパートだった。
普段の引越であれば、そんな「ボロ アパート」なんかに、住もうと思わないが、
「路上生活」に体力的にも、精神的にも限界がきていて、
とにかく、「足を延ばして、ゆったりと寝てみたい」という欲求には敵わなかった。
そのアパートの扉に、「空き部屋 有ります。」と大きな張り紙があって、その下に、
問い合わせ番号と思われる電話番号が書いてあったので、
早速、近くの公衆電話から、大家さんに連絡をして、「賃貸契約」を結んだ。
大家さんは年配の女性で、私達 二人の姿や、「車の中にある家財道具」を見て、
何やら、訳ありの 若くて 貧しい 夫婦なんだろうと勘違いしたみたいで・・・・・・
何かして上げたいと思ったのか、使わなくなった中古の「鏡台」を彼女の為に、
プレゼントしてくれた。
そして、部屋に上がり、その「鏡台」と、「家財道具(?)」を
車から部屋へ搬入した。
改めて、部屋を見渡してみると、道路側に面した六畳一部屋と、小さなキッチン
そして、お風呂という間取りであった。
道路沿いの部屋で、車が往来する度、ヘッドライトの光と、騒音が気になったが、
「風呂付」であったことが、嬉しかった。
以前の私なら、家に風呂があることなんて、当たり前と思っていたので、何も感じなかった事であるのに・・・(一度だけ、トイレが外付けの暮らしもあったが・・・)
でも、この部屋は、永い間、誰も借りて住んでいなかったのか、
かなり ホコリっぽく、汚れていて、その「嬉しく思った風呂」も、
利用した翌日、洗い場を覗いてみると、
排水溝の穴から、「なめくじ」が何匹か、這い上がって来ていた。(*_*)
すぐ 休日に、ホームセンターへ行き、「なめくじ退治の薬」を購入して、
お風呂の排水溝へ散布した。
それ以外の生活用品も、さまざまに、ホームセンターで揃えている内に、
「生活する事、それ自体 大変な事なんだなあ」としみじみと実感していた。
今までなら、トイレットペーパーにしろ、テッシュにしろ、父や母が、無くなる前に、買い置きしてくれていたから、
「いつも、当たり前に、そこに 有る物」と思っていて、
「物は、消費して、無くなる」って、考えたこともなかったが・・・・・・
その頃、節約の心も、芽生え、「シングル ライフ」を、それなりに楽しんでいた。
しかし、恋愛は、どんどんと冷え込んでいった・・・・・・
私は、彼女と結ばれてからは、彼女に 日に日に、のめり込んでいったが・・・・・・
そんな私の熱い思いに反して、彼女の気持ちは、冷めて行っている様だった。
これは、私の個人的な見解であるが・・・・・・
「女」は、
「男」以上に、「安定」「安心」を嗅ぎ分ける嗅覚が発達しているのではないかと。
事例が合ってないかもしれないが、「男」のホームレスってのは、存在が多いが、
「女」のホームレスってのは、存在をあまり聞いた事がないですよねぇ?!
私は、汚く狭いながらも、アパートを見つけた訳で、ホームレスでは無いのですが、
その前は、「路上生活」もしていた訳で・・・・・・
彼女からしてみれば、「安定・安心」を与えられそうもない「男」
(将来、幸せにしてくれそうもない)という様な判断へと
推移していったのではないかと?!
最初は・・・・・・
「同級生で、暴走族だった 憧れの人の従弟」から、
「家庭教師で、頼りになる先生」、そして、
「車で、ドライブに連れてってくれる 背の高い 大学生」、最後は、
「自分に付きまとう 家を追い出され 哀れな 普通のサラリーマン」に!
・・・・・・転落。
女性が、「高感度な安定指向嗅覚」の持ち主であると思う点は、他にもあって、
男性よりも、長寿っていうのも、関係があるのではないかと・・・・・・
女性は、出産出来る機能を持っているから、健全な胎児を宿す為に、体内に、
「毒素(体に悪い物)など」を入れない嗅覚も、備わっている様で・・・・・・
また、「強い遺伝子だけを世に残す」為の本能が働いているのだとも思う。
そして、男性より喫煙者の人口が少ないっていうのも、一つだと思うし、
危険を察知する能力も、男性より優れているので、
そのような場所へ行かないとか、近づかないとか、
危険な仕事に就職しないとか・・・・・・
それと女性は、男性よりも、「機転が利くし、早い」というのが特徴だと思う。
例えば、有名な洋画で、「卒業」、「愛と青春の旅立ち」「プリティーウーマン」など、
所謂、「シンデレラストーリー的な映画」に、女性は憧れている人が多いですが、
私は、「男」として理解し難い点があります。
それは、どの映画においても、最終的に、
「主人公である女(シンデレラ)は、今までの環境をあっさりと捨て去り、
突如として現れた男(王子)によって、連れ去られて、大満足する」
っていう点である。
特に、洋画の「卒業」なんかは、結婚式の真っ只中に、「遅れてきた男(王子)」に、お姫様抱っこみたく、抱きかかえられ 連れ去られても、
やはり 大満足しているってのが、まったく理解出来ない。
しかし、それらの「シンデレラストーリー的映画」が女性に受けているということは、
多くの女性が、そのストーリーに大満足し、憧れ、共感出来得るってことになる。
一般的なテレビドラマのラブストーリーなんかも、
主人公の男性が、プロポーズ出来ないままでいると、
相手役の女性が、待ち切れなくなり、別の男と縁談が進行していって、
まんざら、その男と、結婚するのも、悪くないなと思う様になって、
ラストシーンは、やはり、結婚式場で、
「宴もたけなわ状態」の時に、「元彼」が登場して、
相手役の「花嫁」を奪い去るってのが、お約束みたいなのがありますし、
私は、「恋愛結婚」だったので、「お見合い結婚」のことは、詳しくないですけど、
昔だと、両人の意思よりも、「家柄」を尊重されて、
幼い頃から「許婚・許嫁(いいなずけ)」ということで、
結婚相手が、予め決められていたり、まったく見たことも無い男の元へ、
よく 嫁げるなあって思います。
(実際は、嫁ぎたくないのに、嫁いで行った女性もいると思いますが・・・・)
まあ、いろいろと脱線してしまいましたが・・・・・・
とにかく、「高感度な安定指向嗅覚」が男性より、女性の方が、
備わっていると思う。
そして私も、その「嗅覚」によって、
「危険人物」とレッテルを貼られたんだと思います。
逢っていても、「意見の衝突」が多くなり、「笑顔」が少なくなっていましたし、
「汚いボロ アパート」への入室は、引越の時の一回限りで、
泊って行くなんていうのは、有り得ない話で、逢う約束も、私から、誘わない限り、彼女の方から、逢いたいとは、言わなくなっていました。
まあ、連れ去っていく別の男(王子)の影は、確認してないですけどね(笑)
そういう状態だから、
私としても、「逢いたくないのなら、逢わない方が良い」と思い、
まったく連絡したり、彼女の部屋へ「夜這い」しなくなった途端、
「それっきり!」になりました。(バンドの時みたく、「自然消滅」)
彼女と逢わなくなってから、私は、「生きた屍」状態だったと思います。
気力も無く、惰性的に・・・・・・
ただ 仕事だけは、辛うじて 毎日、欠勤する事無く、出勤していました。
仕事を辞めてしまえば、ただちに 収入が無くなり、「餓死」してしまうことを
自覚していたのでしょう・・・・・・
つまり、「出勤」は、「餓死」を回避する行動になる訳ですから、
とりあえず、微かでは有りますが、「生きよう」としていた・・・・・・
その後、48歳の現在に至るまで、ただの一回も、彼女と逢ってもいないし、
電話で声すらも、聞かなかったですが、今の女房と出逢って、結婚するまでは、
私の心の中は、「未練タラタラ」でした。
女房が、私の心を完全に立ち直らせてくれました。
でも、彼女の場合は、ただちに、女性の特性である「機転を利かせて」、
未練など無く、何事も無かった様に、「新しい男」と結ばれたのではないかと、
私は思います。
ただ 女房が言うには、当時、私が出勤している間、「無言電話」が多く有り、
「前の女の仕業」だと、よく 勘繰って、立腹していました。
無言だけに、彼女である証拠は、何も無いですけどね。
女の第六感ですね。
で、話を当時に戻しまして・・・・・・
私は、そんな心の状態でしたので、「どうにでもなれ!」ってな感じで、
仕事をしていましたので、作業にも身が入らず、
小さなミスをしたりて、気が立っていました。
そんな折、竹村から、些細な事で、私の態度を注意してきた事に腹を立て、
社内で、取っ組み合いの喧嘩をして、上司に仲裁されて、厳重注意されました。
喧嘩の仲裁が早かったので、二人とも、怪我も無く、
社内的な処分も無かったのですが、
私は、仲裁された事で、喧嘩が中断してしまって、気分的に納得がいかず、
仕事が終わった後、会社を出て、近くの公園で、竹村が来るのを待ち伏せして、
喧嘩の続きを申し出ました。
竹村は、まさか、待ち伏せされて、「喧嘩の続きを申し出される」なんて、
思ってもみない様子で、慌てて、会社へ引き返し、社内に居た先輩(専務の息子)を引き連れて、私が待つ公園に戻ってきました。
その先輩は、喧嘩をすすめる訳にはいかないので、私を説得するが、
私は、頑として、納得しないので、苦肉の策として、私に「ある提案」をしてきた。
それは、「竹村を一回だけ殴らせて、後の事は、水に流す」という条件だった。
竹村は、驚いた顔をしていたが・・・・仕方が無い様子で、
それに従うつもりで、私の返答を気にしていた・・・・・・
私も、しばらく 考えたが、「喧嘩をさせてもらえない以上」、その条件を呑んだ。
竹村を自分の真正面に立たせて、歯を食い縛らせて・・・・・・
私は、思いっ切り 右の拳で、竹村の左頬を殴った。
少し竹村は、よろけた。
痛がっている様子は、あまり感じられなかった。(我慢していると思う。)
その後、会社の先輩によって、二人の手を取り、握手させられた。
私は、帰路の道中、悲しくなった 虚しかった 情けなかった・・・・・・・
竹村を殴った右手は、痛くなかったが、「心」が、しばらくの間、痛かった。
翌日から、二人とも、何事も無かったかのように、定時に出勤して、
仕事をし、定時に帰宅する 普段通りであったが、会話することは無かった。
(それから5年後に、竹村と再会し、酒を酌み交わし、和解し、
現在迄年賀の交流が続いている。)
そして、帰宅途中、いつもの「吉野家で牛丼 並」を食べて、電車を乗り継いで、
真っ直ぐ 誰も待つ人が居ない 「汚く 狭い アパート」に辿り着き、
狭い風呂で入浴し、テレビも、何も娯楽的なものが無いので、歯を磨いて、
20時半頃には、すぐ寝て、翌朝、6時半に起床して、7時頃に、
アパートを出発して、8時45頃に、会社へ到着するという
味も素っ気も無い 虚しい生活を 毎日、淡々と送っていただけだった。
休日の過ごし方も、誰とも会いたくなかったし、お金を消費したくなかったので、
専ら、市立図書館へ行き、本を借りてきては、文学書を読みあさっていました。
この時ばかりは、ほんと たくさんの「文豪」作品を読みました。
学校で、夏休みの宿題の作文を書く時以来だったと思う・・・・・
夏目漱石の「こころ」や、「吾輩は猫である」なんて、良かったなあ。
太宰治は、最高で、「走れメロス」と「人間失格」のギャップが、対照的で良かった。
芥川龍之介は、渋い作品が多く、「蜘蛛の糸」と「羅生門」が、素晴らしい。
三島由紀夫の「資本論」は、難しかったけど、考えさせられて、
時間が経つのが早かった。
島崎藤村の「夜明け」なんかも、部落問題のタブーなども、
書かれていて勉強になった。
武者小路実篤の「愛と死」は、当時の私に、一番、身に沁みた作品だった。
他にも、たくさんの名作達が、私の心を成長させてくれました。
そういう部分においては、今、思うと、永い人生の中で、
「自分自身を見つめる」ことが出来た貴重な時間だったが、
当時の私にしてみれば、ただ単に、
「人と会いたくない」、「お金を消費したくない」の一心で、読書しているだけだった。
そんな寂しく、変わりばえの無い 単調な生活を繰り返し、
一か月ぐらい経過した頃、
持病の気管支喘息の発作が再発した。
気管支喘息を知らない方は、その苦しみを想像出来ないと思いますが・・・・・・
簡単に言ってしまうと、呼吸が正常に出来なくなる病気のことです。
人間は、空気(酸素)を口や鼻から吸い込んで、その空気(酸素)は、
気管支を通過して、肺に送り込まれ、血液に混ざり、心臓を経由して、
全身に供給され、二酸化炭素は、また 肺から、気管支を通過して、
口や鼻から吐き出される。
つまり、その空気(酸素)を吸い込んだ後、並びに、二酸化炭素を吐き出す前、
それぞれ、「気管支」を通過しなければ、呼吸が機能しなくなる訳だが、
その通路となる「気管支」が、
さまざまなアレルギー物質(公害・ハウスダスト・食物等)によって、炎症をおこし、腫れあがり、狭くなり、塞がりかけて、呼吸不全に陥る病気なのです。
アレルギー物質が、発症原因になること多いが、
季節の変わり目といった気候の変化や、精神的な要因によっても、
誘発される場合もある。
今回の発作は、「汚い室内」のハウスダストと、
「彼女との別れ」による精神的負担が原因で、発症してしまったと思う。
中学校一年生の時以来の発作だった。
翌朝の土曜日、すぐに、地元にある掛かり付けの病院へ診察にいったら、
いつもの看護婦(看護士)さんから、「久しぶりねぇ〜!」と笑顔で迎えられた。
(いつもながら、私は、笑顔を返す余裕はなかった・・・・・・)
診察の後、吸入器による投薬と、点滴を受けて、
約半日がかりの治療で、かなり楽になった。
服用薬を一週間分、貰い(公害認定患者なので、無料)、帰宅の途に就いた。
呼吸は、格段と楽になったが・・・・・・
このアパートの部屋に入るなり、これから先の不安が込み上げてきた。
そして、また しっかりと、将来の事を何も無い静かな部屋で、考え抜いた末、
「彼女と逢わない」と決めた以上、
このアパートで、一人暮らしする意味が無いという結論に達して、
「自宅に戻ろう!」と決めた。
・・・・・・しかし、親父が許してくれる保証は何処にも無かったが・・・・・・
基本的に、親父は、「彼女と逢うことに反対」してただけだから、
「逢わない」ということは、許してくれるはず・・・・・・
とにかく、事情を話してみようと思い、その夜、自宅へと車を走らせた。
自宅近く、あと5分ぐらいで到着する距離まで来たところで、
また「許してくれなかったら・・・・・」という気持ちが起き上がってきた。
万が一、面と向かって、断れるよりは、ダメージが少ない、
電話をかけてみることにした。
近くの公衆電話ボックスを見つけ、十円玉を入れた・・・・・・
「・・・・・・はい。」と懐かしい親父の声。
「あっ・・・・・俺だけど・・・・・・御免。 今までの事・・・・・・」
それだけ言うと、何故か、涙が溢れてきた。
「・・・・・・今、何処からや?! とにかく、おいで・・・・・・」
と優しい親父の声だった。
自宅へ、到着して玄関を開けるな否や、何故か力が抜けてしまって、
泣き崩れながら、「・・・・・・ごめんなさい!!!」と号泣していた。
玄関先の近くにあるリビングで、親父は、テレビを観ているらしく、
親父は、座ったまま 「まあ、おばさんが今来てるけど・・・・・あがれや!」
と優しく声をかけてくれたが・・・・・・
「おばさん(愛人)が来ている」と聞いた瞬間、涙も渇き、恥ずかしさが込み上げ、
一刻も早く、この場を立ち去りたくなった。
「・・・(アパート)へ帰って、引越の準備もしないといけないし・・・・・・
月末に今使っている通勤定期の期限が切れるので・・・・・・
こっちへ戻るのは、来週の月末で、良い?!」
と改まり、普段を装って、親父に確認してみた。
「ええけど、今、戻ってきたんと違うんか?!」と親父は、リビングから、怪訝な声で。
「うん。 じゃあ・・・・・そういうことで、また 来週。 お邪魔しました・・・・・」
と逃げる様に、ぎごちなく その場を立ち去った。
アパートへ車で戻る道中、
「親父は、今まで、一人じゃなかったんだぁ・・・・・・」と頭を巡っていた。
何か 拍子抜けした感じで、
「俺だけが、辛い目にあっていた・・・・・・」だけなんだと、悔しかった。
自宅へ戻ることも、あまり気乗りしなくなったが、
また いつ発作が起こるやもしれぬ
あの「汚く狭いアパート」生活を継続するよりは、快適だと思い直した。
そして、月末近くの土曜日の朝、八回目の引越の日。
今回の引っ越しは、「路上生活」から発して、
アパートで、三ヶ月間ぐらい生活しただけだったので、
「荷物」に、生活消耗品が増えたぐらいで、
愛車に一回に詰め込める簡単なものだった。
引越業者は、商売上がったりですね。
そして、「十畳の私の部屋」は、私が出て行った時のままで、(ドラムセットも健在)
車から荷物を積み下ろし、部屋の元あった場所に、戻しました。
気分的には、かなりの時間、空けていたような感じがしました。
その日から親父と私は、「何事もなかったかの様に」、以前通り、接していました。
離婚後、出戻りした時とは、間隔も短いので、
親父としても、再会しても、特に「感動」は無かったみたいです。
親父とおばさんとの関係も、進退が無く、
おばさんは、大手家具屋さんの店員として働いているらしく、
平日の木曜日だけが、休みなので、主に、前日の水曜日の夜、
親父の仕事が終わると、おばさんの職場の駐車場迄、迎えに行き、
自宅で、一泊した後、その日の夜、親父が、おばさん宅へ送っているようで、
親父は、日曜日が休みなので、たまに、土曜日の夜、おばさんを迎えに行って、
日曜日の朝、親父がおばさんの職場駐車場まで、
送って行く時もあるみたいで、所謂 「通婚」状態。
(私が観察するに、どうも、再婚する気はないような気がする・・・・・)
おばさんには、私と同じぐらいの一人娘がいて、未婚で、
おばさんの再婚に反対しているようだった。
親父としても、「完全に相性が良い訳ではないようで」、
万が一、バツ2になってもと、結婚には、「懲り懲り」と思っていたのかも・・・・・
まあ、私としては、親父が再婚してもしなくても、関心が無いので、
どちらでも良かった。
どうなろうとも、私の両親は、世界中に ただ一組しか、いないと思っているので、
もちろん 再婚したところで、
私の「母親」として、おばさんを認める訳ではないが・・・・
そして、また 自宅から通勤する「新たな生活(?)」が始まった訳だけど・・・・・・
通勤で、電車を待つ 人々の顔ぶれにも、あまり変化が無い様に、
自宅から会社へ往復する間も、変化の無い日々が続いていた ある日。
研修期間が終り、それぞれの配属先へ異動した。
私は、総務部経理課。 竹村と鈴木と山本達 三人は、営業部へ。
といっても、小さな会社なので、席があるフロアーは、同じであった。
総務部経理課のメンバーは、私を含め、全部で四名で、その内の三名は、
男性で、私と部長と、大垣共立銀行から出向して来ている おっちゃん社員、
紅一点の女性は、
50歳を超えていると思われる元銀行員のパートのおばちゃん
といったガッカリするぐらいの高年齢層の部署だった。
配属後の私の日課は、肉体労働から、デスクワークへとかわり、
ほとんど 座ったまま仕事をすることに。
たまに、銀行へ出向き、「手形の割引」や「振込」、「通帳記入」などをしに行くが、
「小遣い」程度の用事ぐらいで、基本的に、雑用ばかりだった。
まあ、私としては、経理の知識も無いまま、「新入社員歓迎会」にて、
デスクワークを社長に直訴して、「総務部経理課」に決まった経緯があるので、
時間をかけて、教えてもらいながら、見よう見まねで、覚えて行くしかなかった。
主に、そのパートのおばちゃんが、私の席のとなりに居て、「出勤伝票」や、「出納帳」の書き方など教えてくれるのであるが、
この「おばちゃん」が曲者で・・・・・・
ある日、部長から、「銀行への用事」の依頼があった時、
私が出掛ける支度しているところへ、おばちゃんから声がかかり、確認してみると、「自分の息子の大学の授業料の振込依頼」の私用の件だった。
渡された振込用紙には、「同志社大学」とあり、お金も、振込手数料と合わせて、ぴったりの金額であった。
おばちゃんには、「二つの狙い」があり、
その一つは、自分が振込に行く手間が省けることと、
二つ目は、自分の息子が、
競争倍率が高いとされる(つまり頭が良い)大学生であることのアピールであった。
私も、私用なので、断れば良かったのだが、新入社員ということもあり、
いろいろと仕事を教えて戴いている身だし、
「どうせ銀行へ行くついで」だったので、仕方なく引き受けていた。
また ある時、「現金出納帳」を私が記帳していた時も、
おばさんの策略(?)にハマって、大失敗したことがあった・・・・・・・
今の時代と違って、パソコンがまったく普及していない時代で、
「エクセル」「ワード」何それ?! 「食べ物?!」って感じで・・・・・・
「ワープロ」すら無いので、すべて、万年筆で、手書きが当たり前だった。
それで、帳面には、それぞれ、「貸方(カシカタ)」「借方(カリカタ)」といって、
金額を記入する欄が分かれているが・・・・・・
一ページ、すべて、まったく正反対の欄に記入しまくるという大失敗をしました。
何故、「おばさんの策略」と思ったのかは、
私は、新入社員で、まったく経理の知識が無いことを自覚しているので、
必ず 記入する前に、「おばさん」に確認をしています。
で、その時も、確認したら、「・・・・うんうん。」とおばさんは、返事していました。
後から、思えば、その返事は、完全に適当だったと感じています。
その失敗を後日、部長から指摘され、訂正個所に、二本線を引いて、
訂正印を捺印しておく様に、叱られました。
訂正が終わる頃には、その帳面の一ページ全部が、
印影で、真っ赤に、汚れていました。
それで、おばさんは、私が、訂正している姿を見て、
「それは、借方に記入しないとね!」と笑いながら、言ってきた。
(てめぇ、俺が訊いた時には、「・・・・うんうん。」って言っとったろうがぁ?!)
まあ、後の祭りと言うこってす!
それから、数日して、部長の方から、私に、
「簿記の勉強」をする様に、指示がありました。
会社が終業する18時より一時間早い17時に、社を出て、
地下鉄で一駅、乗車したところに、商工会が主催している「日商簿記講座」が
18時〜20時まで、火曜日と木曜日に、開講しているので、
会社経費で半年間、通学するように伝えられました。
今、思うと、経費で「簿記を学べる」機会なんて、
大変、有り難く感謝すべき事だと思えるが、
当時の私は、これも「若さゆえの過ち」なのか、「面倒」な事としか思えなかった。
最初の一か月間は、毎回、真面目に通学していたが、
講座に使用するテキスト代や、通学する為の地下鉄代など、
会社から、貰ってなかったし、勉強してから、帰宅すると、21時半を過ぎていたし、段々と面倒になり、出欠席も取らなかったので、その後、通学するふりをして、
会社を終業時刻より一時間早い17時に社を出て、
受講せず、そのまま帰宅していました。
ホントに、もったいない駄目男です。
<(_ _)>
会社では、こんな不真面目な生活を送っていましたが、プライベートはというと、
「傷心」から、だいぶ 回復していましたが、
これと言って、楽しみがありませんでした。
しかし、同僚である山本と鈴木達との交流が少しづつ始まりました。
きっかけは、営業部である彼らが、特に山本が、総務部に居る私の顔を見る度に、
「どないや?! 具合は?!」と関西弁丸出しで、様子伺いされている内に、
休憩時間にも、よく話す様になって、「会社や上司に対する愚痴話」や、
「ユーモアのセンス」と「音楽のセンス」の部分で、意気投合した。
「会社や上司に対する愚痴話」は、所属部署は違えど、
それぞれ不満があるみたいで、
「ユーモアのセンス」に関しては、特に、山本が兵庫県出身ってこともあってか、
見た目も、振る舞いも面白くて、お互いが、所属長のものまねをして、
「からかって」は、ストレスを発散させていた。
「音楽のセンス」は、三人とも、洋楽が大好きで、
好きなアーティストも似通っていた。
山本は、エレキギターを少し弾けるし、鈴木は、ベース・ギター・ピアノまで弾ける、けっこう多才な奴だった。
鈴木に関しては、鈴鹿市内に在住で、私と同じ三重県在住者なので、
お互いの自宅で、遊んだこともあった。
この二人も、私と竹村同様、後に、この会社を退職するのであるが、
この二人とは、退職後も、しばらくは、交流していた。
普段、会社は、土日祝日が休みなので、土曜日に、
山本が住む賃貸マンションへ皆で集まって、遊ぶことが多かった。
給料日前は、皆、金欠なので、安い箱の酒「鬼ごろし」の一升サイズと、
つまみを持ち寄り買ってきて、冷酒を飲みながら、山本のギターを弾いたり、
音楽談義や、ユーモア談義など、くだらない会話で盛り上がって楽しかった。
時には、「変な話」で熱くなったこともあって・・・・・・・
「変な話」といっても、「エロ話」ではなく、「平均速度の求め方」についてであった。
だいたい「変な話」が沸き起こる時というのは、
三人とも、酔いが回っている時なので、
あとから思うと、何故、「平均速度の求め方」の話が発生したのかは、
まったく覚えてないが、これをきっかけに、私は、大損をしてしまったので、
それだけ、未だに忘れられないでいる。
私は、(速度1+速度2+速度3・・・速度N)÷N個=平均速度
だと思って疑わず、
鈴木は、どちらでも、構わない様だったが、
山本は、それは、間違っているといって、
答えが分からず、お互い譲り合わなかったので、私は、思わず「賭けよかっ?!」と叫んでしまった。
山本は、引き下がらなかったので、一万円賭けることになった。
それで、すぐさま、山本から電話を借りて、104(電話番号案内)で、
名古屋市中区内にある中学校の電話番号を教えてもらって、
その中学校へ電話を架け・・・・・・
「あの〜、すいません。 卒業生なんですが・・・・
数学の先生、いらっしゃいますか?!」
(もちろん、卒業生でも、何でも無い。)
しばらく待っていると・・・・・「はい。」と男性の声で、
数学の先生らしき人が受話した。
それで、「平均速度の求め方」を確認してみたら・・・・・・
私の惨敗であった。
酔いが、一気に冷めるのが分かった。
山本は、私の事が可哀想に思ったのか、
「いいよ。 別に一万円は・・・」と言い出したが、
「男に、二言は無い」と、ちゃんと一万円を、山本に支払った。
(だが、心の中では、正直、痛かった。)
山本と一緒に遊ぶと、他にも、いろいろな事が起きまして・・・・・・
給料が支給された最初の土曜日、例によって、三人が集合して、
今回は、「金を持っている」こともあって、気分も、いつもより上々で、
今日は、イン ドアではなく、アウト ドアという感じで、
「狩しましょう!」ってことになって、
栄の繁華街(東京でいうところの新宿・大阪だと難波)の路上に、車を止め、
車内から、「女性」を物色していた。
たぶん、今思うに、かなり 「イヤラシイ目つき」で、通行する女性を、三人の男が、揃って、下から上まで、視姦していたと思う。
車内では、それぞれが、
「あれ、ええんとちゃうんかっ?!」と助手席に座っている山本。
「俺は、あっちの おねぇちゃんが、ええけどな〜。」と運転席の鈴木。
「おまえ、声かけてこいや〜!」と助手席側の後部座席に座っている私。
方々好き勝手な事を言っていると、前方から、若い男が、ガムを噛みながら、
歩道を肩で風切り、こちらの方面へ歩いてくる様子が確認できて・・・・・・
その男の容姿の「ダサさ」を山本がケナシて、
笑いながら、鈴木に話していたら・・・・・・・
その男が、早歩きで、こちらの車目掛けて、真っ直ぐと近づいて来た!
山本が座る助手席側の窓をドンドンと叩きながら、男は、窓に顔を近づけ、
「おいっ! おまえっ! 何、笑っとんのやー! おー?!」と怒り心頭!
山本は、ビビリながら、ウインドウを下げ、
「何も、笑ってませんよ・・・・・・」
「笑っとったやないかー?! ええから、降りろやー!」と収まらず。
そして、山本とその男とが、何回も、押し問答した後、埒が明かないとみるや、
山本は、とんでもない事を私に、提案してくるのであった!
山本は、私の方を振り向きざまに・・・・・・
「なあ?! しょうが無いから、おまえのカラテで、一丁、ヤッたる?!」
(えっーーーーー!「空手」を習ってたんって、
高校一年の三ヶ月間だけやでーーー!!!)
(でも、「ここで」私が、怖気づいてしまったら・・・・収拾が・・・・・どうしよう?!)
その男は、後部座席に座る私を確認する為、助手席の窓から、頭を突っ込み、
「ろくろ首」の様に、「ニュッ!」と首を伸ばし私の顔を確認し、
「すぐさま、驚いた様に、居直った(?)」
(「俺も男だ!」 ここで、引き下がる訳にも、イカンと腹を括り、
出て行くことに決めた。)
「そやなー、山本、一丁、揉んだろかっ?!」と
めいいっぱい気勢を張って(内心ビクビク)
そして、三人とも、怖々と車から降りてみると・・・・・・
私は、意外な事を再認識することになって、恐さも薄れ、「調子に乗って」しまった。
まず、その男の前に立ってみて分かったのが、
その男の身長が、意外と低いのです。
私の身長は、今も変わりがないですが、173pあって、
その男の頭の先が、私の口元ぐらいにあって、
たぶん160pぐらいだと推測出来ます。
さらに、私だけでなく、山本や鈴木よりも、その男は低く、四人の中で最低でした。
また その男は、私を見て、急に威勢が衰えていきました。
(後部座席に座る私を見た瞬間から・・・・・・?!)
その時の私の容姿は、髪型が、ポマードで固めたオールバックで、
濃い緑色のレンズのレーバンのサングラスに、アロハっぽい柄シャツに、
黒のカジュアルジャケットを羽織って、太もも辺りがブカブカで、足首に近づくほど、スリムなツータックの焦げ茶色のメンパンを履いていた。
イメージ的には、ちょっとガラの悪いヤンキー風!
「いや・・・・この人がですねぇ・・・私の顔を見て、笑ったんで・・・ねぇ・・・」と男は、先ほどとは、態度も、話し方もスッカリ変わってしまって、ビビっている様子。
それで、私は、あえて、低いドスの効いた声で、
「で、そうなんかぁ?! 顔見て、笑っとったんかぁ?!」と山本に確認してみた。
「・・・・いや、笑ってないですよ。(友達なのに、何故か、丁寧語?!)」と山本。
「笑って無いって、言うてるけどなぁ・・・・?!」と ドス声で、その男に訊き返した。
「あっ・・・れ〜?! おっおかしいなあ・・・俺の顔見て、笑ってたのに〜・・・?!」
と その男は、困り果てている。
その男の情けない様子をみて、私は、「イケる!」と思い、図に乗って。
指の骨を鳴らすポーズをしながら・・・・・・(ボキボキッ)
「ここじゃあ、人通りが多いんで・・・あっち 行って ゆっくり 話そかぁ?!」
と私は言って、その男の肩を抱え込んだ。
そしたら、その男は、ゆっくりと肩にかかる私の手を払いのけ、
「・・・あっ いや、私の勘違いみたいでしたので・・・もう 大丈夫です。
それじゃ・・・」
と言って、振り向きもせず、脱兎のごとく、走り去っていきました。
もともとは、山本が、鎌を掛けて、「空手で、ヤッたる?!」って芝居がキッカケで、見事なハマり役になった訳だけど、これほど鮮やかに決まると、気持ちよく、自分が何か凄く強くなったみたいな気がして、後で、笑いが止まらなかった。
まあ、とにかく、その男も含めて、全員、怪我無く、済んだのが、何よりでした(^^♪
山本は、幼少の時、いじめられっ子だったみたいで、
地元の兵庫県から、早く離れたいと
以前から、計画していて、大学も、兵庫県外なら、何処でも良かったみたいで、
大都市内にあって、通学や、遊ぶ時にも、便利な立地条件で、
山本の学力で、合格圏内の大学が、
たまたま名古屋市内にある中京大学が、マッチしていたので、
受験して合格したらしい。
悪い奴では無いのだが、過去にいじめられっ子だった影響か、
普段は、気が小さな男で、
でも、酒を飲んだり、仲間が近くにいると気が大きくなってしまって、
他人へチョッカイをかけて、それが元で、
よく トラブルに巻き込まれるっていう寸法でした。
仲間(友達等)が近くに居ると、他人へチョッカイをかけるということは、
その仲間(友達等)である 私や、鈴木にも、
その他人からの反撃(?)に巻き込まれ易いということにもなる。
それで、また 冬の寒い ある日にも、山本が・・・・・・
例によって、例のごとく、三人で、休日に遊んでいて、
今回は、ディスコへ行こうということになって、名古屋市内にある(あった)
「マハラジャ」という人気店で、ナンパを計画して、失敗に終わった帰りのこと。
「あの娘(こ)、良さそうやったけど・・・何で、声掛けないの?!」と山本。
「何でって?!お前が気に行ってるやったら、
お前が声をかければ、ええんとちゃうん?!」と私。
「まあ まあ まあ まあ・・・反省会は、ほれっ!
そこの屋台ラーメン食べながら!?」と明るく、脳天気に鈴木。
よく 見ると、本格的屋台で、「これぞ! 夜泣きラーメン」って感じの店だった。
酔い覚ましに、寒空を 歩き疲れて、深夜12時を回り、
ちょうどお腹も空いていた時だったので、渡りに船で、
勢い良く三人とも、その店に駆け寄った。
屋台の横に、寒いので、
一斗缶に入れた材木を燃やしている焚火が置いてあった。
その焚火の一番近くに、
先客のおっさんが、座ってラーメンとチャーシュウをツマミに、
店主へ陽気に話かけながら、酒を飲んでいた。
そのおっさんのすぐ左横に、山本が座り、そのまた左に、鈴木、
そして私という順に座り、屋台は、この四人だけで、満員御礼だった。
我々三人も、おっさんが、酒を飲んでいるのを見て、こちらも、飲み直しすることに、
酒とチャーシューとラーメンをそれぞれが注文して、体と心を温めていた。
しばらく、ディスコでのナンパの失敗談義をしていると、
三人とも、かなり酒が進んで、
山本も、そろそろ エンジン全開調子になってきていた。
同席している おっさんも、長時間、屋台の店主と楽しそうに
(店主は、返事するだけ)話ながら、飲んでいるのを山本が見て、
おっさんへ話かけた・・・・・・
「おっちゃん! 何か、楽しそうやね?! ええ事でも あったんかぁ?!」と山本。
「・・・・・・」とおっさん。
「なあ?! おっちゃん! 何か、ええ事 あったんやろ?!
訊いてるやんかぁ?!」と 再度 山本。
一回目で、おっさんから返事が無いので、そこで、「ヤメておけば」良いのに・・・・
おっさんの真横に座っている山本が大きな声で、話かけても、
その返事が無いのは、聞こえてないのではなくて、
「話したくない」オーラを放っているとも、知らずに・・・・
と 次の瞬間!
おっさんは、スクッと立ちあがり、
一斗缶の焚火の中から、燃え盛る一本の材木を抜いて、
タイマツの様に持ち、それを山本目掛けて、振りかかってきた!
「ウォリャァァァァーーーーー!!!」と奇声を発する おっさん。
我々三人は、驚きながら、転げ落ちる様に、
その場を急いで離れ、方々へ走り逃げた!
おっさんは、ひたすら 山本を追いかけまわし、山本は、必死に、逃げ走った。
おっさんは、タイマツを振りまわして走っているし、山本より年配なので、
体力が持続せず、追いつけないと感じた山本は、逃げるのを止め、
一定の逃げられる距離を保ちながら、おっさんと対峙して、説得することにした。
「おっちゃ〜ん!何か、気に障った事 言ったみたいで、俺が悪かった・・・」
と山本。
おっさんは、息を切らしながら、ジリジリと近づく、山本は、少しづつ後づ去り・・・・
「おっちゃ〜ん! タイマツだけ、元にもどしてや〜! 危ないから〜!」と山本。
それには、応えず おっさんは、また 少し 山本に近づく・・・山本は、下がる。
一進一退が続く。
それを見かねて、別方向へ逃げていた鈴木がおっさんの後ろから近づき、
すぐさま タイマツを振りかざしている そのおっさんの腕をつかみ、
そのタイマツを道端へ振り落とした。
「おっちゃん! 危ないって言うとるやろう! いい加減に せえやー!」
と鈴木が一喝。
すると、タイマツ(武器)を失ってしまったおっさんは、
急に ヘナヘナと戦意を喪失し、奇声を発することもなく、
うな垂れて、素直に 鈴木の説得に応じるのであった。
鈴木は、おっさんを屋台の元座っていた場所に、優しく誘導してあげて、
店主にも、ご迷惑をかけた事を謝罪させ、大人しくなったので、
私も、山本も、席につき
(山本だけは、おっさんの真横ではなく、私の左隣に座った)
また 何事も無かったかのように 飲食を再開した。
我々三人は、すっかり酔いが覚めてしまったので、
屋台での飲食中、会話することなく、
そそくさと済ませて、山本が住んでいる賃貸マンションへ戻り、
また箱の酒「鬼ごろし」を飲み直した。
しばらく、飲み直していると、すぐに 三人とも元気が戻り、
会話が弾む様になって、
特に、山本は、元通り(?)になり・・・・・・
「・・・なんや さっきのおっさんは! ほんと 豪(ゴウ)が沸いたわぁ!」
と怒る山本。(関西弁で、腹が煮えくり返るほど、怒り心頭した意)
まあ、私に言わせれば、そのセリフ、山本自身に問うてみたい心況でした。
それにしても、山本という人物と一緒に居ると、次から次へと、
奇想天外な事件に巻き込まれてしまって、困りものです。
でも、今では、それら出来事 すべてが、笑い話で、良い思い出となっています。
そんなこんなで、いろいろな事がありましたが・・・・・・
新卒で、この会社へ就職してから、まもなく あと数日で、
年が暮れようとする 仕事納めの日・・・・・私の身に事件が!
仕事中に、部長から声をかけられ・・・・・・
「そういえば、もう簿記講習が終っているので、修了証書を貰ったでしょ?!」
私は、意表を突かれて戸惑ったが、通学してなかった訳だから、
修了証書などあるはずもなく、虚をついたところで、すぐバレてしまうと思い、
瞬時に判断して、弁解をしてみた。
「あ〜、その件なんですけど・・・通学している時、よく体調が悪くなる時が多く、
よく 早退や、欠席することもあったので・・・
皆勤でないと貰えないらしいです・・・」
それを聞いる部長は、終始無言であったが、顔色が変わったのが分かった。
そして、通常通り、仕事を進めていて、夕方になる頃、また 部長から声がかかり、
応接室へ入る様に指示された。
部長と揃って、応接室へ入室すると、既に、社長が座って私を待っていた様で、
新入社員歓迎会以来のご対面だったが、前回と異なるのは、
社長の顔から、笑顔が消えていた。
私と部長が、社長と向側のソファに座るや否や、社長が開口一番!
「部長から話を訊いたが、簿記講習をサボっていた そうやな〜!」
私は、先ほど以上の敬語を多様して、弁明してみたが、何の効果も無く。
「来年から、おまえは、また 受渡業務で、修行せぇ! 経理の辞令を解く!」
と社長から一蹴される。
そういう訳で、私は、あっ!と言う間に、降格(?)されてしまいました。
その後の仕事は、頭の中が真っ白になりながら、惰性で仕事を片づけ、
虚しい気持ちのまま 明日から、5日間の年末年始休暇を迎えることとなった。
(あ〜ぁ、マズったな〜 嫌だな〜 どうしよう・・・・!!!)
そして、また休みの間、今後の事をしっかりと考えていた。
「簿記講習」をサボったことは、私が完全に悪いと思っているが、
罰として、「受渡業務」で働くことを、ためらっていた。
私は、「受渡業務」をしたくて、この会社へ入社した訳でもなく、
どちらかと言うと、社長に直訴までして、「デスクワーク」を獲得したぐらいなので、
それを あっさりと手放して、肉体労働へ異動することなど、屈辱的であった。
また 一旦、社長の命令に従って、「受渡業務」で、働いたとしても、
今度は、研修とは異なり、無期限となるので、
二度と、経理課へ戻れる保証も無い訳だし・・・
いろいろと休みの間、考えたあげく、
いよいよ 明日から、年始の初出勤と迫った日、
「会社を辞める」結論を選択した。
ただ 辞める前に、一言、部長に提言したいこともあり、
部長と話をする機会を設けられる様に、作戦を発動した。
初出勤日の朝、会社へ電話して、部長に取り次いでもらった。
「あの〜、初出勤日 早々 すいません。」
「ちょっと風邪をひいて、熱があるので・・・・」
「大事を取って、今日は、お休みさせて戴きたいのですが・・・・・」と私。
「おう。そうか、大丈夫?!」
「まあ、今日は、初日で、仕事も、さほど無いので・・・いいよ。 お大事に!」
と部長。
「あっ、それで、部長! ちょっと折り入って、お話したいことがありまして・・・・」
「今日は、部長、仕事は何時頃に終われそうですか?!」と私。
「えっ?! 今日?! ・・・・・・18時頃には、社を出られるけど・・・・」と部長。
「じゃあ、この間、連れて行ってもらいました居酒屋に入ってお待ちしております。」と私。
そうやって、部長と約束を取り付け、電話を終えた。
部長としても、会社を休む、その日の夜に、「折り入った話」とは、
不自然に思っただろうが、私の逆に、只ならぬ様子を感じ取って、
承諾してくれたと思う。
そして、約束時間の5分前ぐらいに、店内に入り、
カウンター席に座り、ビールを注文し、部長が来店するのを待っていた。
やがて、約束時間の10分遅れぐらいに、部長が入店。
私の姿を見つけるや、私の右隣の席へ着いた。
部長も、ビールを注文し、つまみも、それぞれが注文した。
テーブルに注文したものが、すべて 配膳されたのを見計らって、
私は、話を切り出した。
部長の目の前のテーブルへ、「社員バッジ」を差し出しながら・・・・・・
「今日、この様に お呼び立て致しましたのは、
これをお返ししようと思いまして・・・」と私。
それを聞いた部長は、「やっぱりか。」という顔つきで、
その「社員バッジ」を手に取り、ポケットにしまい込んだ。
それから、部長は、私に、ビールをついでくれたり、
労いの言葉をかけてくれたりと、
穏やかに話をしていたが、
私は、部長に伝えておきたい事があったので・・・・・・
「部長! 今回、私が、簿記講習の欠席が多く、その報告をしなかったこと・・・
ちゃんと謝っていなかったので・・・」
「この場をかりて申し訳ないですが・・・すいませんでした! 謝り申し上げます。」
「ただ・・・・いい訳になりますが・・・・・」と前置きを述べてから、本題へ。
この続きは、下記をお読み下さいませ!
<(_ _)>

通学の為の交通費や、教材代、食事代など、余分な支払が発生していたことと、
「受渡業務」への異動について、
「受渡業務」をさげすむ様な社長の言動を批難したり、
このままの社風では、いずれ私の様に、第二第三と、新入社員全員が、
会社に不満を抱いたまま辞めて行くだろうと伝え、辞めてもらって困るなら、
改善する様提言をした。
堰を切った様に、一気に私は、話続け、
それを部長は、一度も反論せず、一時間以上も、しっかりと受け答えをしてくれた。
それで、最後に、この店を出る時、店の勘定と、「未払い経費」として、
私に、5,000円を支払ってくれた。
それ以来、この部長とも、会う事は無かったが、良い部長だったと思えたし、
良い別れ方だったのではないかと、満足だった。
でも、私の予言通り、数か月後には、
昨年入社した全新卒社員が辞めることになったので、
この会社は、私が改善提言したことを守らなかったのでしょう。
私が辞めるだけなら、まだしも、全員退職した訳ですから、
いかに、この会社の社風や、上司等の人格に問題があることが、
よく分かりました。
と言う訳で・・・・・
その日から、私は、無職、プー太郎と相成りました。(照)
貯金もしていたし、しばらくは、、「ロングバケーション」ってな感覚で、
平日は、自宅にて、求人誌とニラメッコしながら、希望就職先を吟味し、
週末の夜から、山本が住む賃貸マンションへ転がり込んで、
泊まり込みで遊びに行ったりして過ごす生活をしていた。
だが・・・・・・
そんな ご気楽生活も、束の間で、
毎週の様に、山本のところへ遊びに行っていると、
当たり前であるが、山本も、歓迎ムードも無く、会話も、素っ気無くなるし、
就職先なんか、大卒だし、まだ年齢も、23歳で、若いと思っていたんで、
すぐに希望先が見つかると思い気や、
それが、まったく 働きたいと思える会社が、見つからない!
それもそのはず、私は、新卒での就職活動すら、ろくにやったことが無く、
最終的には、友達が行くので、じゃあ、その会社へと・・・・
「歌手になる夢」を諦めてからというもの、「自分が成りたいもの」が、まったく
見つけられずに、現在に至っていることに、まだ気づいてもいなかった。
「あれもしたくない」「これもしたくない」と一向に進む訳が無い!
「求人誌から、自分探しなんて、読み取れるハズも無く」
仕事辞めた当初、その旨、親父に、伝えたところ、
あっけない早期退職に、あまり良い顔せず、
「早く、次、決めろよ。」と言われ、
私も、「そのつもり・・・・」と応えてから、
三ヶ月を過ぎた ある日。
昼に、食事をしに、二階にある自分の部屋から、一階のキッチンに降りてみると、
テーブルに親父から、「書き置き」があり、読んでみると・・・・・・
「本日から、仕事が見つかるまで、一切、食事や、食費を用意しない。」
「食卓や、冷蔵庫などに、食べられそうなものがあったとしても、食するべからず。」
とあった。
今までは、朝、親父が作る、
たまねぎが入った たっぷりの味噌汁とご飯を一緒に食べて、
昼は、前日までに、親父が、どこかで買ってきた惣菜パンや、インスタント食品、
または、
昼飯代として、食費などが、食卓の上に用意してくれていたのであるが・・・・・・
食事代ぐらいは、まだ預貯金があったので、しばらくは、大丈夫だったが、
いずれ貯金が底をつく前に、「なんとかせねば」と、
就職活動に、より一層、真剣になった。
でなければ、また 家を追い出されかねないと・・・・・・
とは、思うもの 自分が「働きたいと思える会社」が、なかなか見つからない。
親父は、「職業に貴賎無し」と言うが、
「何処でも良い」と選り好みせずに就職したとしても、
「働きたくない会社」であれば、また すぐに辞めてしまうのが落ちである。
しかし、選別し過ぎても、就職出来る気配も感じられないでいた。
そんな時に、
また 元彼女の父親が、「赤旗新聞日曜版」の集金に、自宅へ訪れた・・・・・・
毎月一回、定期集金に訪れて、
親父が居れば、世間話でもして、集金し、帰るのであるが、
その日は、たまたま 親父が留守にしていて、
私が、対応することになってしまった。
私が、二階の部屋から、玄関先へ行って、ドアを開け迎い入れると、
「あっ、お父さんは、今、留守?!」と おじさん。
「ええ、ちょっと出ている様ですが・・・・・」と私。
「じゃあ、また 今度、集金に来ますわ。」と おじさんが出直そうとしたので、
「いえ、500円でしたよね?! それなら、私が立て替えておきます・・・・・・」
と言って、財布を取りに、自分の部屋へ戻り、おじさんへ支払いしたら、
「・・・・・・どう?! 仕事には、もう 慣れましたか?!・・・・・・」
と おじさんは、娘との事ではなく、仕事への気遣いをしてくれた。
「・・・・・・・実は、三ヶ月前に、辞めてまして・・・・」と ためらいながら、私。
「あっそう・・・・・それで、まだ 見つかってないの?!」と 心配そうに、おじさん。
「ええ まあ・・・・・・」と言葉を濁す 私。
すると、しばらく おじさんは、考えてから・・・・・・
「自分さえ良ければ、働いてみない?!」と 明るく おじさん。
「えっ?! おじさんのところで?!」と 驚く私。
(新聞配達?!)
おじさんの事は、以前、両親からの話では、
共産党員で、「元町会議員」と聞いたこともあるし、
その際、私の為に、「公害認定患者認定への申請」に尽力戴いた方でもあるし、
鉄工業を自営しているとも聞いていたし、
今、目の前に居る おじさんは、新聞の集金をしに来ている訳だし・・・・・・
いったい 「何の仕事?!」かと、頭を廻らせていると。
「新聞配達も集金も、何でもせな アカンとこ!」
「でも、いろんなことが身に就くので。」
「ここで、勤まらなければ、何処行っても、同じだと思うよ。」
「とにかく、一度、話だけでも、訊きに行ってみてよ!」
「私からも、話をしておくので・・・・」
とそれだけ、言って、おじさんは、名刺一枚、私に渡し、
明るく笑顔で帰宅していった。
おじさんが帰宅した後、じっくりとその名刺を確認してみると・・・・・・
「民主商工会 副会長」と書かれてあった。(?)
「民主商工会」(?)って、何だあ?!」
「商工会議所」のことかなあ?!
株式会社じゃないみたいだし・・・・・・?!
「副会長」って、おじさん 偉い人なのかなあ?!
またまた いろいろな想像が、頭を廻ったが、まったく見当がつかなかった。
元彼女の父親としてしか、認識していなかったので、
改めて、おじさんの事、何も知らないでいた事を自覚した。
とにかく、私には、「猶予(?)」が無いし、おじさんを以前から、信頼していたので、
話だけでも、訊いて、「まったく私には無理な仕事」と思わ無い限り、
とりあえず、働いてみようと、心の中で、既に、決めていた。
そして、三日間ぐらい経った面接(?)当日の朝。
スーツに久しぶりに着替え、前日に作成した履歴書を持参して、車に乗って、
30分ぐらい走ったところに、その「民主商工会」鉄骨二階建ての建物に到着した。
面接に、対応してくれた方は、40歳前後ぐらいの男性で、
名刺には、「局長」とあった。
私と会うなり、いきなり 笑顔で、
「おっ?! スーツだねぇ!」と感心してる様子で、
局長も、スーツを着ているのに?! と怪訝に思って、周りを見渡してみると、
従業員らしい人たちが、デスクについていて、男性三人、女性一人、
みんなカジュアルな私服で仕事をしていた。
そして、局長に促されて、長テーブルを二つ縦に合わせた様な机に、
折りたたみ式パイプ椅子が8脚あって、
奥の窓際に、局長が座り、その斜め右前に私が座る形で、席についた。
早速、作成した履歴書を局長に渡すと、
「おっ?! 履歴書ですか?!」
と また 笑顔で感心している。(?)
それで、チラッと履歴書を見て、
「おっ?! 大卒さんですねぇ!」と言って、
周りで、デスクワークしている 従業員達(?)に向かって大きな声で、
「これからは、専従も、大卒さんが、入ってくる時代かもよ!」
益々 私は、この会社(?)が、何をしているところなのか、
謎が深まる一方だった。
「副会長さんから、話を聞いておりますけど、
副会長とは、どういう関係でしたか?!」
と笑顔で、局長。
「父が、昔からの知り合いで、
私が公害認定患者に認定戴く際、ご尽力戴いた方で・・・・」
「後は・・・・・・いつも、
赤旗新聞日曜版の集金に来てくれている おじさんとしか・・・」
と、応えに窮する私。
「そうですか。 ココの事は、副会長から、だいたい話を聞いてましたか?」
と優しく 局長。
「いえ、何でも、するところで、こちらで、勤まらなければ、
他所でも勤まらないとしか・・・」
と私。
「確かに、そうですね。 では、お話致しますと・・・・」
と局長は、笑いながら応え、丁寧に説明してくれました。
説明によると・・・・・・
地域に生活している中小零細業者を会員さんとして組織している商工会で、
その代表者である会長を始め、副会長、役員なども、
すべて 何らかの商売をしている事業主さん達で、それらすべての役席は、
会員総意の選挙で、選出され、民主的な運営をしているとのこと。
その運営には、会員以外の地域に根差す中小零細業者さんも含め、
全商工業者さん達が、「より良い暮らしを送れる様に!」を目的として、
会員の方々が中心になって、
あらゆる方面で、協力・援助・相談・団結し、対処している。
対処の具体的なものとしては・・・・・・
税務相談・自主記帳・自主申告・税務調査の立合い・各種許可書の作成・
事業資金の融資申請作成・経営相談・生活保護など、各種役所への申請・
法人登記申請・決算書作成・各種代書業務・商工会新聞の発行・
配達・集金・・・・・・
まだまだ さまざまなものがあって、書ききれませんが・・・・・・
「農協」の場合は、「農家並びに、農業従事者」達が集まった組織で、
「漁協」の場合は、「漁師並びに、漁業従事者」達が集まった組織で、
「商工会」の場合は、「商工事業主、商売人」達が集まった組織・・・・・・
でも、「民主商工会」は・・・・・・・「商工会」と違うのか?
とにかく、すべての商工業者さん達のさまざまな要望や、
問題に対処している一般的な「商工会」みたいな感じがしました。
一通り、局長からの説明が終わると・・・・・・
「ここ迄で、だいたいの組織概要を説明しましたが・・
何か、分からなかったところとか?」
と局長。
(なんとなく分かったが・・・)
「えっと・・・それで、私が、こちらへ入社(?)させて戴けた場合・・・」
「どのような仕事をさせて戴けるのでしょうか?」と私。
「ん〜。 そうだね。 やはり、副会長が言ってた様に、いろいろと、何でも!」
「最初は、諸先輩達がいるので、同行してもらって、
追々と覚えていってもらう感じです。」と笑みを浮かべながら、局長。
「・・・はぁ・・・分かりました。」
「 ・・・・それで、採否結果は、どのように、いつ頃、
通知して戴けるのでしょうか?」
とキョトンして、私。
「えっ? 採否? いや、いや、あなたさえ、ココで働く気があれば、
いつでも!どうぞ!」
と呆気ラカンと局長。
「えっ? そうなんですかぁ。」と驚く私。
仕事内容も、さることながら、局長の人柄の良さと、
他の企業では味わった事のない、
何とも言えない安心感と、殺伐としてない社風に、
この時、心地良い衝撃を感じました。
私としても、「後が無い」思いで、こちらへ面接に来ていましたので、
すぐさま、入社させて戴く事をお願いし、入社希望日も、私に任せてもらえたから、
週始めが良いと思い、来週の月曜日から入社(?)することにしてもらった。
面接の後の帰り道、車内で、
晴れ晴れとした気持ちで、鼻歌も出るほど、嬉しかった。
親父が仕事から帰宅した後、早速、就職先が決まった事を伝えた。
親父は、「そうか。」と一言。
でも、内心、嬉しそうにみえた。
それと、その日の夜から、食事も、解禁(?)となり、
久しぶりに、親父と揃って食事をしました。
いつもの様に、会話も少ない、食卓でした。
やがて、また改めての初出勤日を迎えた・・・・・・
私としても、たった一回の局長の説明だけでは、十分な仕事内容も分からず、
少し不安もありましたが、全国にある商工業者の皆さん達が、
「より良い暮らしを送れる様に!」を目的としている団体なら、
働いてみる価値があるのではないかと、自分に言い聞かせ、車を走らせた。
事務所に到着して、まず、毎朝一番は、
専従事務職員全員が揃って、ミーティングをします。
専従事務職員は、もちろん ここの団体の会員ではなく、事業主ではない。
文字通り、「専ら仕事を従事する職員」のこと。
(会社風に言うと、サラリーマンと同じく、給与所得者です。)
ミーティングの最初は、局長から全専従事務職員達へ、
私が面接の時に、使用していた机の周りに皆集まり、席に着いたまま、
今日の行動予定を発表して、特記事項などあれば、報告されます。
本日は、私が、新しく ここで、働くことになったので、各自己紹介をしました。
専従事務職員は、局長と私を含め、男性は、6人居て、
他に、女性は、紅一点で、一人だけ居ました。
男性も、女性も、私より年上の方々で、30歳代以上でした。
自己紹介も、和気あいあいと、楽しく各自順番通り話し、ミーティングも終り、
それぞれが、自分達の席に戻り、ゆったりとした雰囲気の下、仕事が始まった。
給湯場で、インスタントコーヒーや、お茶を作って、飲み始める職員もいるし、
ここでは、「女性がお茶を入れる」と決められて無く、男女平等で、
各自、飲みたい者が、自分で作るという環境で、
例え、外部から来客があっても、その時、男性であろうが、女性であろうが、
手の空いている職員が、お茶を用意して、差し出しているようです。
しばらく、皆の仕事ぶりなどを窺いながら、ミーティングした席で、待っていると、
局長から、お呼びがかかり、私の席を用意してくれたらしく、案内してくれた。
「今日から、ここが君の席です。」
「筆記用具など、備品は、机の中に、入っているので自由に使用して下さい。」
「私物などで、机にしまっておくものがあれば、保管して下さい。」
「現在、まだ 君の担当エリアを決めてないので、
しばらくは、私と同行して下さい。」
「この後、私は、税務調査の立合いがあるので、それに同行して下さい。」
と にこやかに、局長。
それで、私は、局長が外出する準備が出来る迄、机の中を整理して、待っていた。
(「税務調査の立合い」って、何だろう?!)
そして、局長の準備が出来たので、
局長の運転で、女性専従事務職員と、私も、乗車して、三人で、出発した。
女性職員も、同行したのは、今回の「税務調査の対象者」が、
その女性の担当エリアの会員さんとのことでした。
道中、車内で、運転しながら、局長から、「税務調査の立合い」の説明がされた。
まず、「税務調査」とは・・・・・・
法人・個人問わず、確定申告並びに、決算書に記載された申告額面が、
過小(売上額面)または、過大(経費)申告された疑いがある場合、
地域の税務署職員が、該当事業主に対して、調査することを言います。
簡単に言うと、
事業主が税金を誤魔化していると疑われた場合の事実確認調査のことです。
その際、税務署職員は、調査目的で、
該当事業主の自宅ならびに、事業所を「任意」で、立ち入りする権利を有し、
事業主は、それを「任意」で応じる義務が有ります。
私は、この時、説明を受けても、何の事やら、まだ「チンプンカンプン」で、
事業主が「嘘の申告」をしたので、それが、税務署にバレて、
取り締まられているんだと解釈していました。
でも、だいぶ後になって、私の解釈が大間違いをしていることを知りました。
ちなみに、1987年に映画公開された伊丹十三監督・脚本の「マルサの女」では、
マルサ(国税局査察部)に勤務する女性査察官と、
脱税者との戦いをコミカルかつシニカルに描いたドラマであって、
ここで言う「税務署職員が行う調査」の事ではなく、
マルサは、「強制捜査」(捜査は、断れず、抵抗すると、刑罰が科せられる)で、
今回の「税務調査」は、
「任意調査」(調査を拒否することが出来るが推定課税される。)となる。
で、局長の説明に戻りますが・・・・・・
今回、同行している仕事は、「税務調査の立合い」なので・・・・・?!
「君は、座って見学していて下さい。」
と局長は、ニッコリと笑みを浮かべるだけだった。
しばらく車を走らせると、「会員」宅に到着した。
会員さんは、「万古焼職人(バンコヤキショクニン)」で、
土鍋や、茶碗、湯のみなどの焼き物を製造販売している個人事業主さんで、
玄関先まで、奥さんと一緒に、我々を出迎えてくれていた。
和室の客間に通され、四角い木製の低いテーブルがあり、
上座にある座布団を使う様にすすめられ、我々は着座した。
まだ調査の約束時間より、早いせいか、税務職員の姿は無かった。
しばらくすると、我々の前に、「特上寿司桶」が三つ差し出されて・・・・・・
「どうぞ、宜しかったら・・・・・」と奥さんが、ニッコリと。
局長は、「いつも、すいません。 ありがとうございます。戴きます!」と言って、
私達にも、食べる様にすすめながら、躊躇なく、先に箸をつけていた。
私は、「会員」さんから、その様な「お持て成し」を受けるとは思ってもなく、
ましてや、「仕事前」に、まず先に、食事をするとは恐縮であり、驚きでした。
局長は、「寿司を食べながら」、
会員さんである主人と世間話をしたり、談笑していた。
局長から、後日確認しみたら、
会員さんへ税務署から「調査のお尋ね書面」が届いた段階で、
会員さんが、事務所に来訪されて、「調査の時の心構え」を含めて、
局長と事前に打ち合わせをしていたらしい。
それにしても、局長の余裕ときたら・・・・・・
すると、その時、「呼鈴」がピンポーン♪と鳴り、主人と奥さんの顔が強張った。
すぐさま、奥さんが玄関先に迎えに席を立った。
税務職員が到着した様だ。
税務署員は男性二人で、
奥さんと共だって、私達が居る客間に通され、下座に着席した。
税務署員は、首から吊るしている「税務署職員証」を主人に提示した。
奥さんは、税務署員へも、「寿司」をすすめたが、税務署員は、丁寧に断った。
(税務署員は、収賄に問われるので、
納税者から、飲食を受けることが出来ない。)
やがて、おもむろに、税務署員の一人が話を切り出した。
「今日は、税務調査にお伺い致しまして・・・・・・」と改まって、税務職員。
「毎度! お世話になります! ところで、何故、こちらのお宅に来たの?!」
と明るく、局長。
「何故って? 税務調査ですよ!」と、平静に、税務職員。
「そうじゃなくて! 事業主は、他にも、たくさんいらっしゃいますが・・・・」
「何故、こちらが、調査されることになったの? 調査理由を聞いているんです。」
と平静に、局長。
いきなり、開戦しました!
「・・・・それは・・・順番に回っておりまして・・・・・」と困った様に、税務職員。
「だから、その順番は、どういう順番?! あいうえお順では、ないんでしょ?!」
と、さらに局長。
「もちろん、あいうえお順では有りませんが・・・決められたことですから・・・」
と愛想笑いを浮かべながら、税務職員。
「で、その決められた事は、どのように決まったの?! くじ引き?!」
と さらに食い下がる局長。
「くじ引きでもありませんが・・・・それは、ちょっと・・・・」
とタジタジな税務職員。
そこで、年配の税務署員に代わって・・・・・・
「・・・ん〜・・・何か、理由が必要ですか、調査妨害になりますよ。」
と、少し立腹した様子の税務職員。
「調査妨害ではなくて、立合いを委任されていますので・・・・・」
「当たり前の事を聞いているだけなのですが・・・」
「こんな簡単なこと応えられないんですか?!」と 空かさず局長。
「・・・・はい。 応える必要が無いです。」とキッパリ、税務職員。
「それは、おかしいんとちゃいます?!」
「何か、疑わしいところがあるから、調査に来てるんでしょ?!」
「その調査理由を言ってくれれば、
その部分に関してだけのものを調査すれば・・・?!」
と まだまだ 局長。
「・・・・・・」とうとう黙り込む、税務職員。
「例えば、不動産を購入したので、儲かってるんじゃないかとか?!」
「例えば、高級車を購入したので、とか、いろいろ理由はあるでしょう?!」
「何か理由がないと、調査に来ないでしょ?! 言えないの?!」
「疑わしい箇所がある訳でしょ?!」
「不動産購入に関して、疑わしいのであれば・・・・・・」
「そのお金の出入りに関しての帳面を見せるので、
それを調査してもらえば良いし・・・」
「理由を言ってもらえば、こちらも、調査妨害している訳ではないので・・・・」
「疑わしい部分の調査だけ行ってもらえば、
お互い時間の無駄使いにもならないし・・・」
「こちらも、スムーズに調査に協力しようと思って言っているんですけどねぇ?!」
「お宅らが、そうやって、調査理由をいつまでも、言わないと・・・・・・」
「逆に、業務妨害になりまっせ?!」
「こちらも、この税務調査の為に、
ワザワザ 仕事を休んで迄、席を設けてるんですよ!」
「貴方達の様な公務員ではないので、
売上が下がり続ければ、倒産もするし・・・・」
「有給なんか、当然無いので、仕事を休めば、それだけ、収入が減る訳ですし・・・」
「お互い貴重な時間を無駄にしない様に、調査理由ぐらい応えたら、どうなの?!」
「それとも、今日の休業分の日当を、そちらで支給してくれますの?!」
「でなければ、やはり、業務妨害になりますなぁ?!」
と、至って平静に、局長は、捲し立てた。
私は、この時、何も言い返せない「天下の税務職員」を横目に、
何も知らない私でも分かる様に捲し立てて
正論を平静に述べている局長の姿を見て、
カッケー! と 心から思いました。
幼い頃、目を釘付けに観ていたショッカーを仮面ライダーが、バッサバッサと
薙ぎ倒している様(サマ)の痛快感を久しぶりに味わいました。
これぞ! 正義のヒーロー!
一緒に、同行している女性専従事務職員は、何も語ることなく、たまに、
メモを取っている様子で、ただ 黙って座っているのも、
少し 気になりましたが・・・・
そして、ようやく 重い口を開いた税務職員は・・・・・・
「あの〜、局長さん、もうちょっと・・・・そろそろ 勘弁してもらえないだろうか?」
と降参したのにも、ビックリ!
「あ〜、そう どうしても調査理由は、言えないんだね?!・・・・・」
と念を押す 局長。
すると、局長は、体を主人に向けて・・・・・・
「あのように、調査理由は、どうしても、言えないみたいだけど、どうしますか?!」
と 明るく局長は、主人に伺った。
主人も、主人で、私の様に、恐縮してしまって・・・・・
「いえ いえ・・・・・理由の方は、もう良いですよ・・・・調査に協力しますから・・・」
「お茶でも、召し上がって下さい。」
と主人は、逆に、小さくなった税務署員が可哀想に映ったのか、
労わる様に、声をかけた。
「あっ、すいません。 戴きます!」と税務署員も、恐縮しながら、お茶を飲んだ。
(お茶だけは、例外として、収賄に該当しないようだ。)
この光景だけを見た人は、税務署員の方が、納税者に見えたと思う。
私は、内心 笑えてきた。
この後、局長は、まったく話すことなく、調査の行方を監視する様に、ジッ!と
税務署員の言動を確認するのみで、税務署員は、局長に監視されながら、
緊張した面持ちで、主人にあれこれ聞き取り調査したり、
主人から素直に、手渡された帳簿類や銀行口座(通帳)、
などと照らし合わせながら、厳正粛々と、調査は、進行していった。
そして、調査は、20分ぐらいで終了して、
今回の調査結果は、「修正申告」となった。
これは、申告額に誤りがあったので、訂正修正して、
改めて申告し直すということに相成りました。(脱税発覚ではありません。)
税務署員が去った後、会員夫婦の顔色も良く、笑顔だったので、
予想以上に増税されなかったのであろうと私は感じた。
会員夫婦は、我々に、ひたすら感謝を述べ、
私は、研修中の身であるとは言え、何もしていないので、
また恐縮してしまったが、
「全国の零細中小事業主のより良い生活を守る為」
「弱者達を権力の横暴から救済する」
「この仕事」を誇らしく思えた。
(自分では、まだ 何も出来ませんが・・・・・・)
そして、しばらく、主人と奥さん等と雑談をして、
我々も、会員宅を去り、事務所へと向かった。
サラリーマンの場合、給与から、所得税だけではなく、社会保険料として、
厚生年金料・介護保険料(40歳以上から)・健康保険料・雇用保険料など、
すべて、天引きされていて、差引残高だけが、給与として、
銀行振込や手渡しなどで、貰っているので、
その貰った金額を給与と思い込まされているが・・・・・
実際は、差引される前の総収入が給与なのです。
個人事業主等は、サラリーマンの様に、給与計算を会社の経理に任せて、
会社が支払いを代行して、所得税や社会保険料を支払っている訳ではないので、
個人事業主が既婚者の場合は、奥さんや、経理として従業員を雇ってなければ、
個人事業主自身で計算して、年度末の3月15日までに、
前年の1月〜12月迄の期間の事業支出額を
「自主計算」「自己申告」しなければならない訳です。
これを、「確定申告」と言います。
「確定申告」をして、算出された所得に対して、
課税され支払われる税金を所得税と言い、
その様に、「自主計算」・「自己申告」して、支払われた税金のことを、
「直接税」とも言います。
サラリーマンも、会社以外から、
不動産所得や、投資などの売買利益が発生している場合や、
住宅取得借入控除や、雑損控除など、会社内で行う年末調整で、
申告出来なかった控除などがある場合、
「確定申告」をして、追徴課税され、税金を追加で支払ったり、
還付され、払いすぎた税金が返金されたりする場合もあるが、
基本的に、サラリーマンは、会社が、本人の「自主計算」・「自己申告」を代行して、毎月の給料から、所得税を仮徴収しているので、
私は、所得税であっても、「間接税」の様な性質を持っていると思います。
「間接税」の代表的なものは、皆さまもお馴染みの「消費税」があります。
「消費税」は、普段、あらゆる商品や、サービスの対価として、
支払っている代金の中に、含まれていて、
所謂、買い物などで、「消費」した分だけ、「知らない間」に、
税金を支払ってしまう仕組みで、「間接税」の代表的な種類の一つです。
「直接税」は、「自主計算」・「自己申告」され税金を支払いますから、
「最近、税金が高くなったなあ。」とか、
「税率を下げてもらわないと、生活が厳しい。」とか、
「税金に対する関心」をハッキリと自覚し易いですが、
「間接税」の代表的な消費税の場合は、
商品の代金の中に、税金が含まれていますので、
例え この先、消費税率が上げられたとしても、
「消費税が高くなった。」と実感し難く、「物価が高くなった。」と勘違いし易く、
「税金に対する関心」も「増税に対しての痛み」も、
緩和され易い仕組みとなっています。
それも、これも、まさに、「国策」であり、「徴収し易く」「国の狙い」となっています。
国としては、国民から、「税金の支払いに対する痛みを緩和」させ、
「取っぱぐれ」が無い様に、確実に正確に、さらに大量に、
「税収入」を得られる様に、
国民の中の税収対象者である個人零細中小事業者を減らし、
または、無くし、国民総税収対象者を、
すべてサラリーマン化するのを目的としています。
サラリーマンの場合は、先ほども説明させて戴いた様に、
「自主計算」・「自己申告」しなくても、会社が、本人より代行して、
所得税などを天引きして、国へ支払っていますので、
国からしてみれば、「タダ」で、全国の税理士兼税務職員のごとく、
各会社の経理職員を雇って、全国のサラリーマンから、「蚊が血を吸う」がごとく、「税金徴収の痛み」を伴なう事無く、自動的に、確実に、正確に、さらに大量に、「税収入」を得られる、誤魔化され難い、国にとっての最高の徴収制度な訳です。
さらに、国の次なる目標は、
「直間比率の見直し(直接税と間接税の割合の見直し)」とお題目を唱えて、
「世界的にも、経済大国では、間接税の割合が、我が国より多い!」
「我が国も、諸外国を見習って、
グローバル化の一政策として、間接税を大増税!」
とか大義名分を言って、「間接税制」を大拡充させ、
最終的には、「直接税制」の廃止を目論んでいると思われます。
ちなみに、今(2011年)だったら、
「東日本大震災による大復興」を大義名分として、
「復興の為に、消費税率のアップにご協力を!」と言う感じですかね・・・・・・
実際には、「復興の為に」 補填(ホテン)する気もないのに・・・・・
原発の損害賠償にしたって、最終的には、電気料金の値上げで、
補填する気なのですから、国民も、本当に、「舐められて」ますね。(*_*)
資本主義社会である以上は、いつも 困った時は、
国民が、「尻を拭く」ハメになるのでしょうね。(ー_ー)!!
「消費税」を施行したことによる国にとっての利点は、
サラリーマンからの税徴収方式の様に、今度は、個人零細中小事業主も含む、
各会社(各事業所)の経理担当者が、国を代行して、
「一年間の総売上の中に含まれる消費税額」を算出し、国へ自動的に、
支払って貰える点と、国民の痛みを緩和させながら、
増税率を徐々にアップさせ易く、すべての商品や、サービス等の売買によって、
発生する「消費税」の実際の徴収対象者は、「老若男女、在日外国人、ニートや、生活保護者など全国民から!
さらには、観光などで日本に滞在している外国人などなど、無差別に!」
徴収が可能で、日本の人口数から、税収額を推定、
思いのままに、操作出来る点、そして、税金の名前が「消費税」という名目から、「目的税」の様に、「税金の使途」が明瞭で無く、推測不明である為、
国が税収を流用(横領)し易く、国民の為以外にも、
税金を投入し易くなっている特徴などがある。
「悪代官」の笑い声が、何処からか、聞こえて来る様です!
「お主も、悪よのう〜! イッヒヒヒヒヒ〜(^_-)」
それと、相対する国民にとって、悪性度が高い特徴は、
「税金の支払いに対する痛みの緩和」により、
「税金や、国策に関する無関心」が増殖し、税金の過剰支払に麻痺し、
国民が国の言い成りになり、知らない間に搾取される。
つまり、先ほど説明した
「国にとっての最良性な特徴を持つ消費税」は、
「国民にとっての最悪性な特徴を持つ消費税」となり、真逆な特性があります。
特に、零細中小事業主等は、お客さんから戴いたお金の中から、
商品代と消費税を分けて、記帳し、所得税とは別に申告をして、
消費税も、一般消費者を代行して、各事業所ごとに発生した売上の中から、
国へ納めなければならないのである。
日常の業務だけでも、大変で、事業を継続するだけでも、
四苦八苦している零細中小事業主にとって、毎日の記帳だけでも、
余分な仕事となり、さらに、一般消費者と密接な関係があるので、
安易に、値上げも難しく、消費税分を被る事業所が、
どうしても増加傾向にあります。
駄菓子屋の買い物客のほとんどは、学校帰りの小学生で、
中には、幼児なども居て、そのような幼い子供達からも、
税金を毟り取る消費税は、恐ろしい税制度であると言えます。
以前の消費税は、今の税込表示ではなく、税抜き表示だった為・・・・・・
幼子「・・・・おじちゃん! これ、ちょうらい・・・・・」
店主「はい。 おりこうさんだねぇ、105円頂戴な・・・・・」
「・・・・・ん〜、あと5円、足らないから・・・・持ってない?! 僕?!」
幼子「それ(100円)しか、持ってないけど・・・・、足らないの?!」
店主「・・・・(困ったなあ)ん〜・・・消費税と言ってね・・・・あと5円、足らないの・・」
幼子「しょ・う・ひ・ぜ・い・・・・・・てっ、なんらの?!」
と、こういう酷く、可哀想な現象が、あまりにも多く発生した為、
国民の怒りの声が、国を動かし、
現在の様に、「税込表示」に法改正し、国は、消費税の悪性の本質を、
さらに、オブラートに包み込み、隠ぺいしているのである。
今度は、「税込表示」になった事により、
零細中小事業主等の「消費税申告」する為の記帳が、複雑になった事は、
言うまでも無い、新たな被害者となる。
この消費税を根絶しない限り、国民の生活を永続的に、苦しめる事になるでしょう。
今(2011年)では、駄菓子屋など、小さな商店も、ほとんど姿を見なくなり、
これも、悪法である消費税導入の影響が大きいと考えます。
で、また説明が長くなってしまいましたが・・・・・・・・
私が、「民主商工会」へ出勤した頃は、まだ「消費税」は導入されておらず、
自民党の中曽根元首相が、「売上税」と言う名前で、法案を通過させようと、
必死になっていた頃で、後に、「売上税」は、国民の大反対にあい、廃案となり、
次の首相、同じく自民党の竹下元首相の内閣で、
「消費税」という名前に看板だけ貼り替えて、
廃案となったものが、「ゾンビ」のごとく生き返り、
ついには、法制化され、導入時は、税率3%だったものが、5%になり、
今日に至っています。
ちなみに、今の民主党(元自民党集団)政権では、さらに税率アップを
目論んでいますが・・・・・・
やがて、私も、「売上税」反対闘争の渦の中へ、自ら好んで入っていくのであるが、
それは、もう少し後の話で・・・・・・・
局長と三人の我等御一行は、事務所に到着し、
その後、事務所内で、先に説明した「税務調査」の内容を、
局長から直接、話されました。
唯一つ、私の中で、合点がいかないところがありましたので、
局長に教えて貰いました。
「局長! 一つ質問して、良いですか?!」
「局長が、税務署員へ、調査理由を
しきりに訊かれていたのは、どうしてですか?」
「そして、その質問に対して、何故、税務署員は、応えられなかったのですか?」
すると、局長は、端的に分かり易く、優しく教えてくれました。
「企業秘密みたいなもん!」
「税務署員からしてみれば、調査理由を言ってしまうと、
手の内を明かす事につながる。」
「つまり、調査理由は、次の調査の立ち入り理由ともなり・・・・・・」
「調査の予防策として応用され易くなるから・・・・・」
「それと調査理由を限定することによって、全体的な調査を行い難くなる。」
と・・・・・・
この続きは、まだ長いので、随時、書き足しますね。(^^♪